暴動

2020年 8月号

 白人警察官による黒人男性の拘束死事件によって全米各地に広がった抗議デモは一部で暴力行為に発展した。6月1日、黒人男性の弟のテレンスさんは事件現場を訪れ、祈りをささげた後、集まった群衆に向けて訴えた。
 「皆さんの怒りは理解できる。でも私に比べれば、怒りは半分だろう」、「それでも私は物を壊したり、地域社会を破壊したりしていない。皆さんは一体何をやっているんだ!」
 
 この言葉、その気持ちをデモ参加者たちはどのように聞いたのか。それをTVで聞いた市民はどのように受け止めたのか。
 この言葉、その気持ちを受け止めて自分の行動を振り返ることができるかどうか。それがその人の人としての力であり、その社会としての力であろう。成熟した人は、この言葉に胸を打たれて自分の行動を考え直し、成熟した社会は、その言葉によって新しい社会活動を見いだすのであろう。
 市民の行うべきは、こうした人種的偏見による事件が二度と起こらないために何をすべきか、どんな社会を創り上げるべきかを考えることであり、社会的に支持される方法によってそれを社会運動としていくことであろう。
 もちろん、それがとても困難な課題であることは誰もが知っている。この事件をきっかけとして生まれる社会運動がどれほど誠実なものであったとしても、それによって黒人差別を米国から消し去ることはできないからである。人種的偏見がなくなることなど、誰もが夢だと信じて疑わないからである。
 
 しかし、暴動が正しいはずがない、略奪が許されるはずなどないのだ。暴動や略奪とは、民主主義社会において尊重され、保障されるべき批判でも抗議でもない。それは単なる暴力にすぎず、暴力が尊重されることなどない、保障されることなどあり得ない。
 群集心理に身を任せた無責任な行動は暴動化し、略奪を行う。そしてSNS上では多くの批判が殺到する。しかし、SNS上の無責任な発言者は暴徒と同じ方向に存在するのだ。群集心理に身を委ね、無名性を追い風にして、批判する我こそが正義であるかのごとく、一方的にかつ無責任に批判するSNS上の発言者たち。そんな人に暴動や略奪を批判する資格はない。
 
 批判する資格とは、自分の言葉と行動に責任を持つということだ。しかし、暴動・略奪を非難し、SNS上の批判を不愉快に思っている人たちでさえ、ドライバーとして同じような過ちを犯している。
 車を運転するとき、他の車が速度違反をして走っているからと、自分も同じように漫然と走り続けるドライバーは少なくない。そして、いつか、誰かが事故を起こす。
 そんな過ちを私たちは数え切れないほど繰り返してきたはずなのに、事故を起こしたドライバーだけが、その直後に反省するだけではなかったのか。私たちは、その過ちと反省を私たちの社会で共有しなければならなかったはずである。
 事故の原因は、そのドライバーだけに存在したのではなかったからである。事故の原因とその可能性は大半のドライバーにも存在したのであり、常に自分にも存在することを本気で考えなければ、私たちは事故を減らすことなどできないからである。
 
 暴動や略奪、あるいはSNS上の無責任な批判に異議を唱え、反発を感じるのであれば、この機会に私たち自身の、普段の、これまで事故を起こさなかっただけの運転の有り様について、もう一度考えてみるべきではなかろうか。