経験と無駄

2020年 6月号

 警察官を希望する高校生が数人、警察署を訪れていた。指紋を検出する鑑識活動などを体験した後、署長室で質疑応答を行った。一人が質問した。「警察官になるために、これからどんな勉強をしたり、どんな経験を積むべきでしょうか?」
 私は答えた。「警察官にとって最も大切な素質とは、普通の人であることです。警察官として必要なこととは、事件や事故に巻き込まれた人たちの気持ち、そして市民が何を警察に期待しているのかを理解することです。そのためには、常識を備えた普通の人であることが最も大切です。特別の勉強や格別の経験など必要ありません」すると、別の高校生が質問した。「今、私たちが学校で勉強している数学とか、無駄な気がするのですが」それを聞いて、私はつい本気になった。「いかなる経験も無駄ではない。それを無駄にするのは自分自身だ!」
 
 私は学生時代、専門の法学書ではなく文学書を読みあさり、いつも何かを考えていた。しかし、そんな読書から何を得られたのかと問えば、何もない。その思索が何かの役に立ったという記憶もない。ただ、そうした経験を経て、時間を過ごして、その結果として現在の自分が在ることは確かなことなのだ。
 何もせず、何も考えずにボーッと一日を過ごしたから無駄なのではない。一日中本を読んでいてもその知識が役に立つことなどほとんどない。その経験を無駄にするか否かは、自分次第なのだ。
 
 もう30年も前になる。それまで交通警察の経験などなかった私は、警部という階級になって突然、警察署の交通課長を命ぜられた。そしてその警察署では死亡事故が多発しており、当時は1年間に30人以上の死亡事故が発生していた。毎週のように、死亡事故、重体事故、ひき逃げ事故等々が発生し、深夜に電話を受けて現場に赴き、そのまま朝を迎えることも珍しくなかった。
 その日も深夜に死亡事故が発生し、そのまま現場で朝を迎えた。すると、上司から連絡を受けた。「ゼロの日の交通監視を忘れるな!」こんな時にゼロの日の方が大事なのか?と苛立ちを隠せなかった。
 疲れ切って署に戻ると警察本部に電話した。「ゼロの日の交通監視を繰り返しても、死亡事故の発生が止まらない。検問や取締りなど、他の活動に変更してはいけないのか?」それは私の率直な気持ちだった。しかし、電話の向こうから返ってきた答えは「バカヤロー、ゼロの日は交差点に立つもんだ!」
 私は失望した。私は怠けたかったのではない。これ以上、死亡事故を見たくなかっただけだ。被害者の惨い姿、ご家族の嘆き・叫び、加害者の茫然自失した姿、……。それを減らすために、交差点に立って笛を吹くことに効果があるのか、他に何か方法はないのかと問いかけたのに、誰も答えてくれなかった。
 
 しかし、今ならわかる。ゼロの日に立つことの価値も自分の言葉で説明できる。経験に無駄がないのと同じように、これまで積み重ねてきた交通安全活動に無駄などないのだ。ゼロの日に立つことで何件の事故を減らすことができるのかではなく、そこに参加した人たちの安全意識を高め、交通安全の価値を共有することを通じて、今日の交通環境が創られてきたからだ。参加者のそれぞれが、もう一度自分も気をつけよう、会社に帰ったら皆にも伝えよう、家に帰ったら家族にも伝えよう……、そう思うことのできる交通安全活動を積み重ねることによって、私たちは必ず交通死亡事故を減らし続けていくことができるからだ。
 新型コロナウイルスが蔓延している今日、私たちの社会を守るためにそれぞれの立場で力を尽くすことが求められている。そして今、私たちにできること、それは今こそ安全運転を続けて交通事故を減らすことで医療従事者の負担を軽減し、医療の崩壊を防ぐことだ。そして、その安全運転を自らの経験とすることなのだ。