「ただいま」の数

2025年12月号

 『「行ってきます」と「ただいま」の声の数は同じでなくてはならない……』これは、警察署長Kさんの言葉である。
 彼は、交通警察活動に長く携わり、数多くの失われた命、そして、ご家族の悲しみと向き合ってきたに違いない。ご家族を失った方々への思いが、その言葉に込められている。
 本当にそう思う。交通事故で、「ただいま」の声が聞けなくなることなど、あってはならない。なのに、今日も交通事故は繰り返され、失われる理由などないはずの命が奪われている。
 交通事故を起こしたドライバーの多くが、「避けられなかった」、「運が悪かった」などと供述するが、そんな甘えた言い訳を私たちは許してはならない。
 避けられない事故など、ほとんど存在しない。事故を起こしたのは、避けるための注意力、安全意識が不足していたからである。
 運が悪かったのではなく、悪かったのはドライバー自身である。
 
 私たちは、自動車の便利さ、その快適さに甘え、安全に運転するという最初の約束を忘れてきたのではないか。
 そして、交通事故の発生は、日常のありふれた出来事になった。交通死亡事故でさえ、前年との増減を比較するだけで議論を終えている。守られるべき命、それを増減だけで評価し、議論を終えることに対して、私たちは疑問を抱くこともなく、違和感も覚えない。
 減らすことは大切だが、ある程度の交通事故は仕方がない、発生するのが当然だと、いつの間にかそう思い込んできたのではないか。
 しかし、それは違う。そんな思い、そんな考えは間違っている。

 人は生まれ、育ち、やがてその寿命を終える。それは人の定め、世の習いであるが、生まれてきたこの命を全うするためには、それなりの時間が必要である。
 生まれて育ち、世の中を眺め、自分を省みる。そして、生きていること、誰かの役に立つことの大切さを知る。
 かけがえのない命、すべての、ひとつひとつの命の大切さを知ることが、人として成長することであったように思う。そして今、それを守ることの大切さを思う。
 家族の一人がいなくなる。それは、祖父母であり、両親であった。次は自分の番である。それは寂しさであるが、私たちが受け止めるべき寂しさである。その悲しさは乗り越えるべき悲しさである。
 しかし、交通事故で人がいなくなることなど、私たちは認めてはならない。その寂しさ、悲しさを乗り越えることなど、誰にもできるはずがない。家族を交通事故で失った人の怒りは、加害者だけではなく、私たちの社会にも向けられている。

 失われるはずのない大切な命が、防ぐことのできる交通事故で失われることを許してはいけない。
 止まるべき場所できちんと止まる、歩行者・自転車を守り、互いに譲り合う運転を続けること。それだけで、交通事故は半減し、交通死亡事故はほぼゼロになる。それは難行・苦行ではなく、誰にでも、今日からできることなのだ。
 安全運転は誰にでもできる。私たちにできることをきちんと行うこと、それが安全運転の本質である。
 私たちは命の大切さを知っている。ならば、安全運転の大切さを忘れてはならないはずである。
 K署長の言葉どおり、「行ってきます」と「ただいま」の声の数は、いつも同じでなくてはならない。
 一人ひとりが安全運転を習慣とすることで、「行ってきます」と「ただいま」の声の数は同じになる。
 私たちは、私たちの社会は、命の大切さ、生きていることの大切さを、決して忘れてはならない。