いつか、「風」になる。

2018年 1月号

 ノーベル賞のボブ・ディランは、歌っていた。
 How many times must the cannon balls fly
    Before they’re forever banned?
「どれだけの砲弾が飛び交えば、人は永遠に戦争を止めることができるのだろうか?」
 そして、私は考える。「どれだけの人が交通事故で命を失えば、人は交通事故を無くすことができるのだろうか?」

 それは、自動車の安全機能や自動運転によってではない。それは、人が運転する自動車の、人の過ちをなくすことによって実現すべきことだ。なぜならば、私たちは、悲しみによって、考えることによって知恵を育(はぐく)み、人と力を合わせることによって困難を克服してきたからだ。それを機械に委ねることは、人の命の重さを数の多寡にすり替え、人としての叡智を放棄することになるからだ。

 高齢者の事故が増えたのは、高齢者が増えたからだ。わずか10年間で高齢者人口は50%、免許人口は85%も増加した。それを忘れて高齢者の事故が多いと嘆くのは、高齢者人口の増加を嘆いているにすぎず、答えを導くことはできない。
 私たちは知っている。交通事故で命を失った人たちの数、その人たちを大切に思っていた家族や友人がいたこと、そして加害者にもその家族がいたことを。
 それでも、多くの人たちが事故を防ごうとする真摯な思いを持てないのは、想像力が足りない、その力が足りないからである。それは、命を失った人、その家族の気持ちを察する力の欠如であり、加害者やその家族の気持ちを考える力の欠如である。そして、自分の運転行動に変化を与えられないのは、人としての誠実さの欠如である。

 被害者となる歩行者に反射材の着用を求める前に、加害者となるドライバーが速度を抑制し、ハイビームを活用して走行すればほとんどの事故を防ぐことができる。自動車の安全機能の強化は、人の不完全さを補い、高齢ドライバーの能力を支援するものであり、一般ドライバーの自分勝手な運転を擁護するものではない。

 他人の運転行動はコントロールできないが、自分の運転行動をコントロールすることはできる。知らない人に伝えることはできないが、家族や友人、職場の仲間たちに自分の思いを伝えることはできる。
 できないことを嘆くのではなく、できることをすればいい。それだけで事故は半分以下になるのだから、愛知県下の死亡事故が百人を切るまでは、私たちは今、できることをすればいい。
 命を失った人、その家族の気持ちを察する力を持ち、加害者やその家族のことを考える力を持つ。そして、自分自身の運転行動に責任を持つ人としての誠実さを身に付けること。

 ボブ・ディランの歌はこう続く
        The answer is blowin’ in the wind 
        (答えは風に吹かれている)
 そうだ、私たちはその「風」になろう。
 いつか、「風」になる。