交通安全を築くべき場所

2023年12月号

 交通安全運動の歴史は長く、その流れは大正にまで遡ることができる。大正8年の自動車取締令、大正9年の道路取締令を国民に周知させるために交通安全運動が展開されたと記されている。
 そして、昭和30年代に入ると交通事故は急増して社会問題となり、全国各地で様々な交通安全運動が展開されるようになった。愛知県では昭和44年の交通事故死者数912人という絶望的な交通情勢を踏まえ、官民一体となった取り組みが行われ、今日に至っている。
 
 交通事故によって、これまでに数えきれないほどの命が奪われ、失われ、残された家族の悲しみは積み重ねられてきた。そして今日も、減少傾向にあるとはいえ交通事故はなくならず、ドライバーは人を傷つけ、命を奪っている。これから更に何人の人の命が失われれば、私たちは死亡事故をゼロにすることができるのだろうか。
 しかし、交通事故によって奪われた命の数が交通事故を防ぐのではない。失われた命には名前があり、そのご家族にとってその一つがすべてであることを考えれば、私たちが安全運転を実現し、多くの人たちに呼びかけるために必要な死亡事故など、過去の1件で十分である。
 安全運転のためのわずかな手間を惜しみ、必要な注意を怠ることによって事故は発生し、人が傷つき、その命が失われる。そして、ドライバーはその人生を失う。私たちが安全運転を呼びかけるのは、交通死亡事故が多いからではない。ほとんどの死亡事故は避けることができるからだ。
 私たちが死亡事故の犠牲者を悼み、被害者ご家族の悲しみの声を聞き、心打たれて安全運転を思うことは大切である。しかし、私たちが安全意識を高め、安全運転を誓い、安全で快適な交通環境を築くべき場所とは、その犠牲者やご家族の悲しみの上ではない。私たちが目指すべき安全運転とは、犠牲者の数やご家族の悲しみの上に立つべきものではない。
 私たちは想像力という優れた能力を持っている。想像力を働かせることによって過去の出来事を振り返り、将来を予測して自分の行動を規制することができる。交通死亡事故、交通事故が多いから安全運転をするのではない。私たちの社会は既に、数え切れないほどの死亡事故を繰り返してきたのだから、これ以上の犠牲者など必要ないはずである。
 犠牲者やご家族の悲しみの上に安全運転を築くのではなく、何もない場所に、私たち自身の力によって安全運転を築くべきなのだ。
 安全運転を続けるために、新たな死亡事故を知る必要はない。私は過去に立ち会ったひとつの死亡事故、そのご家族の悲しい声を聞いたこと、その記憶がある。それだけで、私はこれからも安全意識を失うことはない。事故を起こさない保証などなくとも、私は安全運転を続けることができる。
 
 喜びだけではなく、悲しみも苦しみも人は避けて通ることのできない大切な経験であり、それぞれが人としての成長を支えている。しかし、交通事故の経験が人生を豊かにすることなど決してない。交通事故が避けるべき無駄な経験であることを考えれば、それを避けるための努力を惜しんではならないはずである。しかも、それは過大な負担を強いられるものではなく、少しの努力によって、誰でもいつでも実現できることなのだ。
 安全とは守り続けるべきもの。過去の出来事を胸に刻み、自らの運転行動の支えとして、忘れずに守り続けるべきものである。 
 
 私たちは、犠牲者の数の上に交通安全を築くべきではない。
 私たちが幸せで充実した人生を送るためには、私たち自身の、一人ひとりの心の中にこそ、いつまでも変わらない高い安全意識を築くべきである。