1977年9月28日、国際テロ組織・日本赤軍により、パリ発東京行きの日本航空472便は、中継地のインド・ボンベイを離陸後にハイジャックされ、バングラデシュのダッカ空港に着陸した。
犯人は乗客・乗員151人の人質と引き換えに、日本国内の獄中にいる過激派活動家等9人の釈放と出国、そして身代金600万ドル、当時のレートでおよそ16億円を要求した。
時の日本政府は、「超法規的措置」として、犯人の要求を飲む決断をします。福田赳夫総理は、犯人の要求を受け入れる理由として、「人の命は地球よりも重い」と発言し、この言葉は今日まで語り継がれています。
しかし、テロリストの要求を受け入れた日本という国は、世界各国からその信頼を失いました。その時の身代金と開放された過激派活動家によって、その後、何人の人々の命が失われるのかを知っているからです。そしてそれは、日本人以外の国の人たちです。
学生だった私は、政治家、国のリーダーとはかくも厳しい決断を迫られるものなのだと思った。国民の命を犠牲にしてでも国を守ること、これが政治家、国のリーダーの果たすべき責任なのだと思い、その責任の重さに畏れを感じた。
時の総理はその責任を果たしたのか、それとも、放棄したのか。
いずれにせよ、私はどちらも選択できない。ならば、私は政治家にもリーダーにもなれない。私は、人(の命)を守ることだけを任務とする警察官になろうと思った。
私は、命が失われる交通死亡事故について、数でその重さを推し量ってはいけないのだと思っています。
車の運転とは、繰り返される日常行動のひとつであり、それ故、その危険性は希薄になり、多くのドライバーは杜撰な運転を繰り返しています。杜撰な運転は過失を事故に発展させ、人を傷付け、時にその命を、ドライバーの人生を奪っています。しかし、ほとんどのドライバーは、その事実に気付いていません。
多くのドライバーは、事故とは偶然の結果であり、運が悪かったと考えているようですが、それは違います。ほとんどの事故とは避けることができるものであり、交通事故とは偶然でも運が悪かった結果でもありません。
交通事故は、自らの安全意識の未熟さを忘れ、必要な注意を怠り、漫然と運転した過失によって発生しています。ならば、悪かったのは運ではなく、ドライバー自身の罪なのです。
安全運転とは、道路交通法を頑なに守ることではありません。制限速度を守っていても、重大な交通事故を起こしてしまえば、その責任を免れることなどできません。安全運転とは、事故を避け続けることのできる注意深い運転のことです。
安全運転管理者が、その事業所の管理車両だけではなく、通勤車両、その他のマイカーまで広く社員の交通安全教育を浸透させることによって、社員とその家族を交通事故から守る。それを広く浸透させることによって、私たちの社会全体の交通環境は安全で快適なものになる。それが安全運転管理者制度の目的であり、少子化に伴って若者教育が困難になる中において、その重要性は益々高まっています。
「人命は地球より重い」という言葉は誤っています。その誤りとは、人の命、その重さを何かと比較したことにあります。命の重さを何かと比較すること、たとえそれが地球であったとしても、比較することそのものが間違っている、私はそう考えています。
命の重さを量る機械など、この世に存在するはずがありません。あるとすれば、それは私たちの心の中にこそ存在するはずです。