人生を変える

2021年 7月号

 私は楽譜も読めないのにクラシック音楽を聴く。大好きな指揮者の一人がレナード・バーンスタイン。ニューヨーク・フィルの音楽監督として活躍した後にも世界中の著名な交響楽団を指揮して多くの録音を残しているが、どれもが熱い思いの溢れた名演である。
 さて、多忙な日々を送るバーンスタインは、ある日若手の指揮者を指導していた。しかし、予定の時間を過ぎても終わる様子がないためマネージャーが声を掛けた。「もう予定の時間を過ぎている。教えるのは終わりにしよう」するとバーンスタインはこう答えたのだ。「私は教えているのではない。彼の人生を変えているんだ!」
 
 この話を聞いて私は反省の念にかられた。かつて警察官だった私は、退職近くまで齢を重ねてようやく警察活動の在るべき姿を理解できるようになっていたが、それを本気で若手の警察官に伝えようとしていたのかと思ったからだ。
 若い警察官に理解しやすく伝えようとしたこと、余り厳しくすると萎縮してしまうのではないかと考えたこと、それは彼らに対する遠慮であり、私は間違っていたのではないか。遠慮してはいけなかったのだ。経験不足の彼らには、今理解できなくてもいつかわかる時が来る、署長から厳しく叱責されて萎縮してしまっても、その記憶がいつか彼らを支える時が来るはずなのだ。もっと本気で、彼らの警察官としての人生を変えるほどに、私は強く、厳しく伝えるべきだった。
 
 110番通報があったらパトカーはサイレンを鳴らして行けと言った。理由は、待っている人がいるからだ。それを私は丁寧に説明していたが、「110番して待っている人の不安な気持ちが理解できないなら、警察官なんて辞めてしまえ!」と怒鳴るべきではなかったか。
 交通違反を検挙する理由について、「違反だから」などと違反者が納得できない説明しかできない部下には、その場に正座させてでも徹底的に教えるべきではなかったのか。
 交通違反の検挙とは、検挙することを通じてドライバーの運転行動を変化させ、違反者の人生を守ること。そして、それを積み重ねることによって交通環境を変化させ、より多くの人の命を守ること、それが検挙活動の目的なのだ。
 しかし現実は、大半の違反者はあからさまに嫌な顔をしてふてくされ、警察官の説明など聞こうともしない。そして警察官の多くはあきらめ、黙って切符の作成と処理を急ぐ。検挙することが目的ではないのに、さっさとやれと言われてさっさと処理するのでは、その取締・検挙活動の効果は半減する。
 
 部下に遠慮することなくもっと本気になって伝えるべきだった。私などに人の人生を変えるほどの力はないが、部下を育てることだけではなく、自分の仕事のすべてについて、本気であることの大切さを思う。それが遠慮ではなく必要な配慮のつもりであっても、争いを避けたいという思いそのものが本気ではないことを示している。本気でなければ人には伝わらない、本気でなければ何も変えることはできないからだ。
 そして、重大な違反による事故だけではなく、ありふれた過失によるありふれた事故こそが時に人の命を奪い、加害者の人生を奪うことを思えば、私たちの交通安全活動には本気で取り組むだけの価値がある。その積み重ねによって誰かの事故を防ぐことができたのであれば、それは「人の人生を変えること」にちがいないからだ。
 
 バーンスタインに教えられた若者とは、現在、世界を代表する指揮者として活躍し、NHK交響楽団首席指揮者でもあるパーヴォ・ヤルヴィその人である。