見えないものに価値を認めることができますか?
空気に価値を認めること、健康であること、幸せであること、そして、安全であることに価値を認めることができますか?
危機に瀕した命を救出すれば、誰からも大きな評価を受けます。
大地震の後、瓦礫の下から消えかけた命を救出する、凶悪犯人に拉致された被害者を救出する、それは誰からも賞賛され、高い評価を得ることができます。
しかし、私たちは今ここにある空気、健康、幸せ、そして安全に対してほとんど関心を持つことはなく、失われて初めてその大切さに気付くのです。そして、守られた命でさえ、それが具体的でない限り、大きな評価を得ることはありません。
交通事故で失われた命の数は明確ですが、安全運転、交通安全活動によって守られた命の数は誰にもわかりません。対前年比はひとつの指標でしかなく、減少数とは、守られた命の数ではないからです。前年比で死者数が10人減少したとしても、守られた命の数は10とはいえず、数えることはできません。そして、守られた命が誰なのかなんて、誰にもわからないのです。
数えることができないもの、比較することができないこと、見えないものに価値を認めることとは、人としての理性や想像力に委ねられるため、しばしば後回しにされ、時に忘れられています。
澄み切った青空、遠く広がる海、遥か天空に聳える山々、野に咲く草花など、それぞれの美しさはその場所に佇み、心静かに眺めることで感じることができます。心洗われるその美しさの中で、生きていることの大切さ、その幸せを感じることができます。
しかし、見えないもの、数えられないものの大切さは、しばしば忘れられ、蔑ろにされてしまいます。
交通死亡事故で亡くなられた数多くの人たち、その一人一人は、かけがえのないたった一つの命でした。犠牲者ご本人だけではなく、そのご家族、そして加害者自身とその家族にとっても、その1件の交通事故こそがすべてです。その年、県内で何件の死亡事故が発生したかなど、何の意味も価値もありません。
それを考えたとき、対前年比で増えた減ったと一喜一憂したり、全国ワーストの返上が悲願と訴える言葉の儚さを思います。
安全運転を指導すること、安全運転を続けることとは、目に見えない安全というものに対して真摯に向き合い、そこに自ら価値を認めることなのだと思っています。
部下を導く者、安全運転管理者には、安全という見えないものに価値を認め、数えられないものの価値の大きさを推し量り、それを伝えることが求められています。
数値を目的とすることはわかりやすいのですが、それを目的とすることによって指導が対処的になります。もっと気をつけろ、事故するな……と繰り返すことになり、数年後に振り返ったとき、何も変わっていないことに気づくのです。
誰もが気をつけていたのに事故を起こしたのであり、気をつけろ、事故するなという指導で事故が減ることはありません。安全運転を続けることによって、自分や家族の人生を守ることの大切さについて、自らの言葉で部下に伝えなければ、何も伝わりません。
社内の事故が前年比で減少することが安全運転管理の目的ではなく、その減少数が安全運転管理者の成果ではありません。1年という期間だけで評価し、一喜一憂するのではなく、社員一人一人の運転行動の変化、会社という組織の進化・発展を目指すべきです。
私たちは、交通事故防止という課題を通じて、交通事故の件数を減らすことだけではなく、人を守り、未来に向けて、本当に安全な交通環境を創る気概を持つべきだと考えています。