大切なもの

2025年 5月号

 自転車はヘルメットを着用しようという呼びかけに対して、女子高生はこう呟いた。
 「ヘルメットなんて、前髪が乱れるからイヤ!」
 先生は尋ねた。
 「前髪と命とどっちが大事なの?」
 女子高校生は答えた。
 「私にとって、前髪は命なの!」

 私はその言葉を聞いて嬉しくなった。彼女が偽りのない正直な気持ちを表現してくれたことに対して、私も正直に答えなければならないと思った。
 「そうか、前髪は命か。それほど大切なんだ。わかった。
 ならば、ヘルメットを無理してかぶることはできないね。
 大人たちは、命と前髪とどっちが大事かなんて、当たり前のことを聞いてしまうけど、その質問は成立していないかもしれない。
 例えば、水と空気とどちらが大切か、なんて質問と同じ。水も空気も、どちらかがなくなれば人は生きていけない。だとすれば、質問そのものが成立していないことになる。
 多分、あなたの言いたいことって、それに近いように思う」
 私がその女子生徒を叱り、説得してくれるはずだと期待していた先生たちの顔に、驚きと怒りが見えた。

 私は続けた。
 「でもね。いつかきっと、あなたにも、前髪以上に大切なものを見つける時が来る。
 例えば、あなたのお母さんのこと。あなたの知らない昔、あなたを身ごもり、お腹の中であなたが動き始める。元気で生まれてくれるだろうか、どんな子なんだろう、などなど、喜びよりも不安な時を経て、あなたは生まれた。
 お腹の中で動いていた自分の赤ちゃんと、ようやく対面した。その喜びは、母親にしかわからない。
 あなたもいつか、母親になる時が来る。その時のことを想像してみれば、わかるはず。
 あなたの命は、あなただけのものではない。
 前髪以上に、大切な命がそこにある」

 「交通事故は毎日どこかで発生し、1年間に2,600人以上の人の命が失われている。そして、加害者は、自分の人生を失っている。それって、おかしいと思わないか?
 人と自転車と自動車が、それぞれ自由に動き回れば、必ずどこかで交錯して事故になる。それを避けるためには、互いに譲り合うことが必要なのに、自分が優先であるからと十分な注意もせずに走る。
 子どもが飛び出してきたから止まれなかった、そんな言い訳が繰り返されている。子どもや自転車が飛び出して来ることを予想して、止まることのできる速度で走るべきだ。
 見えなかったから仕方がないのではなく、見えるまで減速する、それでも見えなければ、止まってでも確認することで事故を避けることができるのに。
 これまで、防ぐことのできる交通事故を私たちは防いでこなかった。交通事故を防ぐこと、安全であることの大切さを考えよう。
 本当に大切なものは、数えることも、見ることもできない。考えなければ、大切なものは見つけることができない。
 自分自身で、その大切さを感じること。そのためには、苛立ちの中で、今を精一杯、生きていることだと思う。
 いつか、前髪よりも大切なものを見つけたら、それを守り続けていてほしい。そして、空に向かって伝えてほしい。きっと、私のところにも届くはずだから」