安全運転が難しい理由

2017年 4月号

 交通事故を防ぐことが大切で、そのためには安全運転に努めることが必要なことは誰もが知っている。交通事故に気をつけてくださいと伝えれば、返ってくる答えは同じです。「ありがとう、でも私は大丈夫……。」
 誰もが安全運転に努め、誰もが気をつけているはずなのに、交通事故がなくならないのは何故なのか、安全運転が難しいのであれば、その理由は何かを考えてみる。

その1 : 自己過信
 毎日交通事故が発生していること、たくさんの人がケガをしたり、命を落とす人もいることは知っているが、それは自分のことではないと思ってしまう。自分も車を運転するが、何となく、自分は大丈夫だと感じてしまう。そんな不思議な自信がその正体です。
 そして、過去に違反をして検挙された人は「運が悪かったから」だと考え、事故をした経験があっても、それは「相手が悪かったから」「たまたまタイミングが悪かったから」だと信じている。だから「私は大丈夫!」だと思い込む。
 この「自己過信」こそ、交通事故の最も大きな要因といえます。

その2 : 重要性の認識不足
 人の命に関わる行為は重要であり、慎重に行われるべきは当然です。車の運転は命に関わる重要な行為であり、常に慎重に行われるべきですが、一方で誰もが行う日常の行為であるため、軽い気持ちで安易に運転されています。
 車の運転とは、わずかな過失によって人を傷付け、時にはその人の命を奪ってしまう行為であることを知っている。しかし、その重要性を認識することができないため、運転行動に反映できないでいるのです。

その3 : 他人の危険に関心が及ばない
 自分や家族の身に危険が及ぶことには敏感ですが、他人に対する危険には関心が持ません。交通死亡事故が発生しても、家族や知り合いでなければすぐに忘れてしまいます。
 まして、自分の行為が他人に危害を及ぼすことなど考えず、他人の危険には関心が及ばないのです。

その4 : 面倒で疲れる
 安全運転とは、注意力を高めて周囲の状況に気を配るなど、疲れる、面倒な行為でもあります。
 自動車の性能が向上したことで、運転は気楽で快適であることが当然だと考え、面倒な確認行為を疎かにする傾向があります。

その5 : 保証がない
 どれだけ安全運転に努めていても、事故を起こさないという保証はありません。それでも、安全運転という行為に価値を認めて安全運転を続けようとするドライバーの意識こそが大切です。それは、その人の人格そのものの表出であり、マナーという言葉で評価されるレベルのものではありません。

 こうした、人として誰もが抱いてしまう事故の要素について、それをどうしたら払拭できるのかを考えることが必要ですが、これらの課題を克服し、事業所従業員全員が安全運転に努める環境を作ることは容易ではありません。
 安全運転管理とは、事業所において安全運転を習慣とすることであり、そのための努力を惜しまないことだとすれば、それぞれの安全運転管理者が孤軍奮闘するのではなく、安全運転管理協議会という組織やその活動を通じて他の管理者と相互に協力し、発展させていくことが重要なのだと感じています。