安全運転の価値・人格の価値

2019年12月号

  自動車は人を乗せ、物を運ぶ。家族を乗せ、恋人を乗せ、幸せを運ぶ。自動車とは、安全で快適、そして便利な乗り物です。決して、人を傷付けるために作られたものではありません。それなのに、毎日多くの人が交通事故によって傷付き、時に命を失っています。
 それは何故なのか、そこに不足しているもは何か……。
 安全なはずの車が人を傷付ける、そこに欠落しているのは車の部品ではなく、ドライバーである私たち自身の「安全意識」なのだと思っています。車の快適さに心を奪われてその危険性を忘れ、自己過信に陥って自分だけは大丈夫だと思い込み、漫然と運転しているからです。そこにあるのは「安全意識」ではなく、「自己過信」に過ぎません。
 そして事故を起こした時、自分の不注意や安全意識の不足を反省するのではなく、相手が悪いとか運が悪いと言い訳をするようでは、どれだけ自動車の安全機能が向上しても、事故をなくすことなどできません。

 人の運転は、その時々の判断に基づいて行われているように思われますが、そのほとんどは習慣的な行動です。例えば、40km/hの規制道路を50km/hで走るか60km/hで走るか、あるいは信号が黄色に変わった時にブレーキを踏むタイミングなど、そうした運転行動はその時々の判断ではなく、むしろその人の習慣的な行動です。
 そしてその習慣的な行動は、その人の行動規範によって形成され、その行動規範とはその人の価値観に根差しています。更に、その価値観とは、その人の経験によって形成され、過去の運転行動もこの経験に含まれますから、全体が循環することになります。
 ※ 運転行動→経験→価値観→行動規範→習慣的行動⇒運転行動
 したがって、安全運転を行うことの価値を正しく理解し、自分のものとしない限り、恒常的な安全運転はできないことになります。

 車を運転するには努力が求められ、義務と責任が伴います。例えば、十分な車間距離を保って追突事故を防ぐ、一時停止場所では左右の見通しが悪くても停止線の手前で必ず一時停止して出会い頭の事故を防ぐ、夜間はハイビームを活用して歩行者の早期発見に努めることなどです。これらは車を運転する者として実行すべき当然の義務であり、必要な運転行動であるのに、他のドライバーが実行しないから自分もしなくていい、それが許されるのだと勝手に解釈して漫然と運転を続けています。
 そして事故を起こした時でさえ、自分の運転を反省するのではなく歩行者を批判するドライバーは少なくありません。例えば夜間の事故で、「高齢者が黒い服を着ていたから気付くのが遅れた」などの言い訳は、『注意していなかった』『よく見ていなかった』ことを自ら証明しているにすぎないのです。

 安全運転を行うためには、そこに正しい価値を見つけ、自分の運転行動に変化を与えることが必要であり、それは車の運転という日常行動、その習慣を変えることです。事故を防ぐためには高い安全意識を持つこと、そして安全運転の価値を認めることが不可欠です。
 安全運転の価値を認めることができる人は人生の価値を認めることができる人格者です。それは、自由の価値を認めることと同義だからです。
 すなわち、交通安全の価値とは、そこに自由と同じほどの価値を認めて自ら行動する人、その人格の価値のことだと考えています。