老舗ホテルで食事をご馳走になった。創業150年に至り、蔵から発見されたレシピを再現したとされる料理も並び、本当に美味しくいただいた。料理の味だけではなく、同席された方々のやさしい人柄に囲まれ、心地良い時間を過ごすことができた。
「美味しい! でも……」とご婦人が呟いた。「100年以上も続くお料理は本当に美味しいけど、ずっと同じなのね」私は手を止めて続く言葉を待った。
「私たちが家庭で作る料理は、同じものを作ってもいつも少し違うの。だから飽きない、毎日食べられるの。
レストランのお料理は吟味され、きちんと作られているから本当に美味しい。でも、いつも同じ味だから飽きてしまう。毎日は食べられないの」
なるほどそうだ、私は納得した。
さて、私たちは毎日のように自動車を運転するが、それは家庭の味なのかと思った。そして、レストランの味とは、サーキットを疾走するフォーミュラカーのことであろうか。
サーキットのフォーミュラカーは先を急ぐ。早い者勝ちである。しかし、コントロールを失って衝突してしまえばその速さは無駄になる。速く、しかも、安全に、これが勝負の要素である。
私が現職の警察官だった時、富士スピードウェイを時速200km/h以上で走る車、プロドライバーの助手席に同乗する機会を得た。そこで感じたこととは、加速はできるが減速ができない、ということだった。
私がハンドルを握っていても、最終コーナーを立ち上がり、加速してホームストレートを時速200km/hまで加速することはできる(と思う)。しかし、第1コーナーへの入り口で、一気に減速すること、時速200km/h以上から一気にブレーキを踏み込み、ハンドルを切って車をコントロールすることなど怖くてできない。加速することではなく、減速すること(事故回避)への恐怖を感じていた。
私たちは、会社へ行くため、買い物に行くためなど、どこかへ行くために運転する。つまり、運転することそのものが目的ではない。
しかし、事故を起こしてしまえば、目的地に行けないだけではなく、誰かを傷付け、時にその命を奪うことにもなりかねない。
そして、交通事故の結果とは、過失の軽重に比例するものではない。死亡事故ですら、ありふれた過失によって発生している。ドライバーに事故の結果、その重さを決める権利はないのだ。
起こしてしまった事故をなかったことにできない以上、私たちにできることとは、事故を防ぐための運転を続けること、それだけである。
私たちは、先を急ぐ必要はない。否、先を急いではいけない。私たちにとっては、安全であることがすべてである。
急ぐのであれば、速度を上げるのではなく、出発時刻を早めることだ。計画的に仕事を整理して片付けること、それが安全運転のための大切な準備であり、すべての仕事の基本である。
もし、途中で渋滞に巻き込まれ、約束の時刻に到着できないのであれば、ブレーキを踏んで車を止め、遅れることを先方に伝えるべきだ。アクセルを踏んで速度を上げ、間に合ったことを成功経験とすれば、いつか必ず事故を起こす。
毎日、無事に自宅に帰り、毎日少しだけ違う手作りの家庭料理を味わうことこそ、私たちが何よりも大切にすべきことである。安全と無事、そして家庭の味が私たちの人生を支えているのであり、それを実現するための落ち着いた運転こそ、充実した幸せな人生の基本である。