山頂

2024年 7月号

 登山家には山頂が見えている。世界的に登ることが難しい山とは、ネパールのアンナプルナ、パキスタンのK2などとのことであるが、登山家には目指すべき山頂が見えている。
 画家の叔母がポツリと言った。「登山家には山の頂上が見えているけど、私たち創作家に山頂は見えないの。描き続け、山頂を目指して登り続けるしかないのよ」
 そのために必要なものとは、熱意ですか? という私の問いかけに、「そうね、熱意、いい言葉。私に必要な言葉」と微笑んだ。
 
 さて、私たちが目指すべき交通死亡事故ゼロという山頂は、私たちに見えているのであろうか?
 死亡事故ゼロという山頂は、これまで事故防止活動に取り組んできた人たちにとって現実の目標であったのだろうか。理想郷、希望、夢として語られてきたのではないだろうか。
 現在を生きる私たちは、それを現実の課題として考えるべき時代を迎えているが、それは、自動運転技術の進化によるものではない。自動運転の車とは純粋に移動手段としての乗物であり、私たちが大切にしてきた自動車とは別の乗物である。
 
 自動運転とは、山頂までエスカレーターを築くことであり、それは私たちの目標ではない。山頂までエスカレーターが築かれる前に、私たち自身の運転によって事故を防ぎ続けることが求められている。
 私たちが目指すべきは、安全、快適、便利という自動車本来の機能を私たち自身の力によって取り戻すということであり、交通事故を防ぐことによって私たち自身の人生を守るということである。
 過去に発生したほとんどの死亡事故は防ぐことができたはずである。もし、今日から、すべてのドライバーが安全意識をもって事故を防ぐ運転を続けることができるのであれば、今日から交通死亡事故はほぼゼロになる。
 しかし、私たちはすべてのドライバーの安全意識、その運転行動を変化させることの限界を知っている。だからこそ、山の頂上までエスカレーターを敷き伸ばすのではなく、石積みの階段を一歩一歩踏みしめて登るように山頂を目指してきた。
 山頂に到達することだけを目指すのであれば、飛行機に乗り、上空からパラシュートで舞い降りれば実現できる。
 しかし、過去、幾多の登山家が難攻不落といわれた山の頂を目指し、何人もの登山家は犠牲となった。それでも登山家が山頂を目指すのは、人としての叡智、気力、体力の限りを尽くすことによって頂に達することができるからなのか。自らの足で斜面を踏みしめ、山頂を辿ることによって、人としての理想や希望、そして夢を実現させることができるからなのかと思う。
 
 さて、私たちは交通死亡事故ゼロという課題を自動車の安全機能に押しつけてはいけない。交通事故を起こさない移動手段としての自動運転車、その可能性が視界に入った現代であればこそ、私たち自身の安全意識と事故を防ぐ運転行動によって死亡事故ゼロという山頂を見据え、一歩ずつ歩みを進めるべきである。
 今、私たちはその山頂を眺めることができる。その道のりの先には、反りたった岸壁が存在することはなく、それは歯を食いしばり、体力の限りを尽くすべき道ではない。一人でも多くの人たちと支え合い、手を携えてこそ辿り着くことのできる道のりである。
 私たち自身の意識と運転行動によって、私たちはその山頂を視界に捉え、死亡事故ゼロというかつての理想郷、希望、夢、それは自動車が誕生して以来、初めて現実のものとなる。
 エスカレーターが築かれるよりも先に、私たち自身の力によって山頂に辿り着くのだ。