自動車が生まれ、人が運転して荷物や家族を運び、幸せを運ぶようになったとき、人々は自動車の進化を期待しました。もっと安全に、もっと快適に走る車を望み、そして時代の技術者達はその期待に応え続けてきました。
やがて車は進化し、運転しやすく、快適になりました。しかし、安全性能が向上するほど人はスピードを上げて車を走らせたため、車の進化に比例して事故が減っているとはいえません。
ところで、事故を起こさずに少し早く目的地に到着できたとして、そこに何が生まれてきたのでしょうか。スピードアップによる到着時間の短縮は、私たちに本当の幸せをもたらしたのでしょうか。
減少しているとはいえ、未だに交通死亡事故が繰り返される今日の交通事故情勢は、私たちが本当に望んでいたものだったのでしょうか。
果物ナイフは、リンゴの皮をむいたり食べやすく切り分けるために使います。その使い方を誤ると手を切って血が流れますが、悪意がなければそれで人の命を奪うことはありません。
一方、自動車は、本来、安全で快適な乗り物です。しかし、使い方を誤ったり、小さな過失によって人の命を奪うことがあります。悪意などないのに、たくさんの命が失われています。
物は便利になるほど危険性は高くなります。進化することによってその便利さや快適さが強調され、危険性を感じることが難しくなりますが、その危険性を知らなければなりません。それを知らないまま使い続けて事故を起こし、取り返すことのできない結果を繰り返しているのです。
世の中は便利になり、車だけではなく、すべての物事がスピードアップしました。ニュースも豊富にスマホに届き、知識は増えました。しかし、現在を生きる私たちが本当に望むべきこと、大切にすべきことは何なのかについて考える時間が必要なのだと思います。そのひとつが、安全というものについての問いかけではないでしょうか。
安心とはイメージであり、空想や期待感に過ぎませんが、安全とは現実であり、交通事故も現実です。交通事故、交通死亡事故とは、人の体が想像できない形に変わり果て、生暖かい血が流れる、その臭いに満ちた現実です。
毎日繰り返されている交通事故という現実を避けるためには、安全というものの価値を見つけることから始めなければなりません。価値とは、人から与えられるものではなく、自分で見つけるものであり、それを見つけない限り、安全運転を習慣とすることはできないからです。
そして、そのために費やされる時間こそ、私たちを守るための大切な時間なのだと思います。
事故を起こしてしまえば、どんな謝罪もその償いにはなりません。被害者の命を取り返すことはできず、その家族の悲しみ、失われた平穏、幸せを償うことなどできないからです。
そして、その車を運転していた加害者自身も豊かな人生を失い、家族にも終わることのない悲しみをもたらしますが、その加害者とは、明日の私たち自身なのかもしれないのです。
私たちが望んでいた社会とは、人も車も、大人も子どもも老人も、それぞれが支え合う豊かで安全な社会だったはずです。
交通安全とその価値について考える時間、それは私たちにとって必要な時間であり、大切な時間なのだと思っています。