その昔、「県民の期待に応える警察」という言葉が警察活動の基本目標として定められていた。しかし、その県民とは誰のことなのかについて議論されることはなかった。
活動の指標とすべき県民の声とは何なのか。耳を傾けるべき県民の声、それは声高な批判や苦情ではないはずだ。警察組織・警察活動に対する批判は耳を塞いでも聞こえてくるし、一方的な要求に基づいた苦情も少なくない。それでも、県民の声を聞くことが仕事なのだと指示され、批判や苦情への対応に追われ、汲々としていた。
県民の多くは、口を閉ざしている。不満を抱いても苦情や批判を口にせず、その声が聞こえてくることはない。聞こえてくる批判や苦情の向こう側で、警察・警察活動に対して不満を抱きながらも、ほとんどの県民は、黙ったまま口を閉ざしている。
聞こえてこないから存在しないのではない。むしろ、耳を傾けるべき声とは、そうした沈黙を続ける大多数の県民の気持ちのことではないのか。
耳を傾けるだけでは聞こえてこないその声を聞き、その期待に応えるためには、本気になって県民のための警察活動の在るべき姿を考えることから始めなければならない。そして、自らそれを実現しようとする姿を示すことによって、それまで黙っていた人たちは初めて口を開き、警察活動への理解だけでなく、支持してくれるはずなのだ。県民に理解と協力を求めるだけではなく、県民の支持が得られる警察活動こそ、警察組織として目指すべきなのではないか。
交通事故は、人の命を奪っただけではなく、数えきれないほどの人の心と体を傷つけてきた。死亡事故とは、命が奪われたという結果を示すものであり、ほとんどの場合、それは特異な事故でなく、ありふれた事故の結果である。つまり、ありふれた事故を減らさない限り、交通事故は減らず、死亡事故はなくならない。
ありふれたウッカリによって交通事故を引き起こし、時にそれが重大事故となり、死亡事故になる。その被害者の命は失われ、家族の悲しみは現実である。しかし加害者は、人の命を奪った事実に自覚がなく、自分の人生を失った悲しみとは空虚である。
「わざとではなかった。ついウッカリした。でも、それがあんなことになるなんて、あんな所に人がいるなんて、なんて運が悪かったのだろう……」と繰り返し思う。しかし、それは違う。そんな言葉に耳を傾けてはならない。同情してはならない。
同じ過失が軽傷事故ですむか、死亡事故になってしまうか、それはその事故の諸条件によって左右されることがある。しかし、死亡事故を起こした理由とは、運が悪かったからではない。漫然と注意を怠って運転していたからである。
つまり、運が悪かったのではなく、ドライバー自身の運転が悪かったからだ。私たちは、交通事故を避けるために注意深く運転を続ける義務と責任がある。
安全運転管理者が応えるべき声とは、事故を減らせという上司の声ではない。組織幹部は、その職責を果たそうとする思いによって結果を要求する傾向がある。しかし多くの経営者は、社内事故の増減だけではなく、社員を守り、育てることを基本とした将来的な組織運営を考えている。つまり、安全運転管理者が応えるべき声、それは、社員とその家族を事故から守り、仕事に専念させ、互いに支え合うことによって進化・発展を目指す組織の声である。
そして、交通安全活動を続ける私たちが受け止め、応えるべき声とは、交通死亡事故ワースト返上という掛け声ではない。私たちが応えるべきは、未来の声である。将来の社会が事故のない、安全で快適な交通環境であってほしいと願う社会全体の、そして子供たちの未来の声なのだ。