想像力(イマジネーション)

2024年 6月号

 私たちが自動車を運転するときの安全意識は乏しい。
 そして、安全運転ができない理由とは、主に
 ・ 自己過信(私は気を付けているから大丈夫という意識)
 ・ 重要性の認識の欠如(運転することはありふれた行為であり、運転することが目的ではなく手段に過ぎないためにその重要性、危険性に関する意識が乏しくなる)
などである。
 
 さて、ドライバーが最も注意して安全運転に務めるときとは、自ら交通事故を起こした直後である。
 私たちが人生を過ごしていく中で、それぞれ様々な経験を経て生きているが、個人が経験できる出来事などほんの僅かである。ほとんどは過去の出来事、他人の経験を学び、自分の経験に置き換えて生きている。それを私たちは「知恵」と称して大切にしてきたはずである。
 しかし、安全運転についてはこの「知恵」が十分に活かされていない。交通事故を伝えるニュースについて、交通死亡事故ですら、私たちはほとんど無関心である。ああ、またか、と思うだけで次のニュースを読み始める。そして今日も、交通事故は繰り返され、死亡事故が発生する。
 死亡事故を伝えるニュースに驚け、被害者ご家族の悲しさに涙しろ、加害者の喪失感に恐れを抱け、ということではない。
 「ながら運転」によって事故は頻発している。ほとんどのドライバーは、これくらい大丈夫、自分は気を付けているから大丈夫、などと思いながら(自己過信)運転を続けている。ゲームなどしなくても、通話でも、ライン、メールをすることでも現実に事故は発生し、時にそれは死亡事故になる。
 その運転行動が事故になり、死亡事故になったのは偶然ではない。ドライバーの運が悪かったからではない。その時そこに人がいなければ事故にはならないが、ドライバーには前方を注意して運転するという当然の義務があり、それを「ながら運転」によって怠った以上、悪かったのは「運」なのではない。悪かったのはドライバー自身である。
 
 スマホでゲームをしながら運転する楽しみと、失ったものの大きさなど比較するまでもない。被害者の命、被害者ご家族の幸せ、自分の人生、自分の家族の幸せなど、そのすべてを失ったのであり、スマホゲームの楽しさと比較できるはずもない。
 そんなこと誰でも知っているのに、「ながら運転」は繰り返されている。自分の運転行動は、それで十分といえるのか、誰に見られても、家族に見られても恥ずかしくないものなのか、と問い直すことが必要である。
 
 交通死亡事故とは件数なのではない。命が奪われる現実である。日々発生する交通事故は、そして死亡事故は、その1件がすべてである。
 交通事故とはありふれた出来事であるが、ありふれているためにその重大さに気付くことが難しい。
 しかし、残された家族、とりわけ、お子さんを失った母親の、父親の、その慟哭の叫び声を聞かなくても、私たちドライバーは交通事故の重大さに気付くことができるはずである。
 運転するときの安全意識の不足とは、想像力の不足に等しい。私たちは想像力(イマジネーション)を発揮して知恵を身に付けるべきだ。交通事故を防ぐこと、安全運転を続けることの大切さ、その価値を見つけ、自分の運転行動を変化させることだ。
 想像力を発揮することによって私たちは自分の人生を守り、自分の家族、そして誰かの命を守ることができる。