未だに、飲酒運転はなくならない。そして、「ながら運転」も減っていない。
交通事故は過失の結果であるが、飲酒運転や「ながら運転」そのものは故意である。飲酒した後に運転することを止めていれば、運転中のスマホの操作を我慢していればその事故は避けられたのであり、自らの意思で避けることのできた事故を発生させた罪は重い。
しかし、いくらその罰を重くしようと、失われた命が帰ってくることはない。その事故をなかったことにすることなどできない。
飲酒運転や「ながら運転」は言語道断。しかし、それを非難する私たちは、本当の安全運転をしているかと改めて自らの運転を省みる必要もある。
飲酒運転や「ながら運転」、そんな身勝手な運転が許されないことなど誰でも知っている。しかし、これくらいの酒なら大丈夫、ゲームをしていても事故などしないと根拠のない自己過信に身を委ね、事故を起こすまでそんな運転を続けるドライバーが存在する。否、事故を起こした後も、あれは運が悪かった、相手が悪かったと自己弁護を重ねて同じ運転を繰り返すドライバーすら存在する。
私たちは、飲酒運転によってどれほど悲惨な交通事故が繰り返されてきたかを知っている。「ながら運転」によって失われるはずもない命が失われた事実を知っている。その怒りと悲しさは社会的な動きとなり、法は厳罰化へ向けて改正された。しかし、それで問題が解決されたわけではない。
飲酒運転による交通事故は減少したが、それは事故全体が減少していることに伴うものであり、飲酒運転による事故の割合は減少していない。
「ながら運転」は道路を眺めれば簡単に見つけることができる。飲酒運転につては誰もが強く批判するが、「ながら運転」には同情的、寛容な意見を耳にすることがある。しかし、それが重大な交通事故の原因となる点においては同罪であり、「ながら運転」はこれまで以上に厳しく批判されるべきである。
社会の怒り、法の厳罰化を経てもなお繰り返される飲酒運転、「ながら運転」に対して、私たちは、安全運転管理者は、新たな法改正・法的規制を待つのではなく、会社・事業所の社会的責任の名の下に、出発前・帰社後の酒気帯び確認を行い、スマホへの依存を強める現代人の「ながら運転」を止めさせる責任を担っている。事故ゼロを目指す真摯な取り組み、安全運転管理の徹底こそ、今日における企業の社会的存在意義を示す。
そして、忘れてはならないことがある。それは、飲酒運転や「ながら運転」のような悪質な運転でなくても、ごく普通の運転によって、誰もが犯してしまうほどの過失によって、時に死亡事故は発生しているという事実である。飲酒運転や「ながら運転」を厳しく戒めるのと同時に、私たちは、死亡事故の多くがありふれた過失の結果として発生している現実を忘れてはならない。
悪質な、故意ともいうべき運転によって引き起こされた事故も、ありふれたわずかな過失によって発生した事故も、その結果、失われた命は同じである。ご家族の怒りの強さこそ異なれ、その悲しみは同じである。
私たちは交通事故を防ぐための安全運転、その方法を知っている。交通事故を減らすために必要なものとは知識ではない。私たちに不足しているのは、それを深く考えて実行しようとする意思である。
車の安全機能が急速に進化している現代とは、それぞれの事業所が、一人一人のドライバーが、安全運転を実行し継続することを自ら決意すべき時代のことである。