歴史学の目的

2019年 1月号

 「歴史の勉強をする目的とは、未来を知るためではなく現在の可能性を理解するためだ。」という文章に出会った。
 つまり、私たちがこれから行う判断、選択、その行動とは、決して過去からの必然ではなく、私たちが想像しているよりもずっと多くの可能性が存在すること、私たちはもっと自由でいられるのだということを理解すること、それが歴史を学ぶ目的であるとの指摘である。
 学生時代、年号を記憶するのに辟易して歴史嫌いになった私にとってまさに目から鱗が落ちる思いであり、その頃にこの文章に出会っていればと思わずにいられない。

 さて、私たちが取り組んでいる交通安全活動の目的とは、ただ交通事故が減ればいいというものではない。
 交通事故を減らすことだけを目的とするのであれば、それは政策的に実現可能である。車が走らなければ事故は減少するのだから、例えば、ガソリンの税金を何倍にも引き上げれば車の走行距離は減少し、必然的に交通事故も減少する。しかし、そんな状況は誰も望んでいない。
 私たちが目指している新しい時代の交通環境、それを実現するための交通安全活動とは、私たちが望んでいる豊かな社会、その基盤を支えるべきものであり、そしてそれは、常に交通事故の堅実な減少と死亡事故のなくなることを見据えているが、過度な負担や苦痛を伴うものであってはならないはずである。

 安全運転管理については、安全運転管理者等の基本業務として、
  ① 運転者の適性等の把握  ② 運行計画の作成
  … ⑦ 運転者の安全運転指導
などが定められている。
 また、安全運転管理協議会の事業計画では、業務重点として
  1 組織をあげた安全運転管理の推進
  … 4 歩行者保護を始めとした交通安全意識の定着
などを定め、これを起点として様々な交通安全対策が示されているが、こうした交通安全活動、その施策とは、従事する人たちに一方的な負担を強いるものではない。

 歴史学者が語ったように、私たちの交通安全活動とは、そこに大きな可能性が存在すること、もっと自由な活動が可能であることを理解しなければならないのだと思う。
 交通安全というものに価値を見つけ、安全運転をすることに意義と喜びを感じ、満足や共感が得られるものでなければならない。何故ならば、それが理想なのではなく、安全運転とは本来そういうものだからである。

 私たちが「人」である所以は、豊かな想像力と言葉であろう。
 想像力と言葉によって人は知恵を育み、多くのものを作り上げてきた。自動車をより安全に、より快適に、そのために多くの技術者たちの知恵が発揮され、集積され、自動車は今日の姿を持つ。
 しかし、安全という現実は、意図されたほどの成果をあげていない。それは何故か、そこに不足しているのは何か。それは、私たちドライバーの安全意識、それである。今こそ、技術者たちの知恵を引き継ぎ、ドライバーたる私たちが安全意識という知恵を発揮すべき時代を迎えている。
 安全意識を持つドライバーであることに人としての誇りを持つこと。それが現代のドライバーの在るべき姿であり、新しい時代の交通環境の礎であると考えている。