わき水

2025年 6月

 富士山のわき水は、昨日の雨ではない。
 安全運転を習慣とするドライバーの運転とは、昨日受けた指導・教育によるものではない。
 譲り合い、歩行者を優先し、確実に止まり、安全確認を怠らない。そんな誇るべき運転とは、一日で身に付くものではない。上司から、事故するなと指示されて行うものではない。これまで身に付けてきた安全意識、その人の人格が、運転行動として現れている。

 会社全体の交通事故を減らすためには、社員個々の運転行動が変化しなければならない。
 社員の運転行動とは、それぞれが抱いている安全意識の結果である。そのため、運転行動を変化させるためには、社員個々の安全意識を変化、進化させなければならない。
 つまり、運転行動を変化させることとは、人の価値観に変化を与えることであり、それが簡単であるはずはない。手間と時間と反復継続が必要である。
 そして、安全意識とは、数値評価できず、検証することが困難である。そのため、これまでの交通安全教育は、一方的な指示が繰り返されてきた。そして、発生した交通事故の原因とは、当該社員が指示を守らなかったことと判断され、対策を増やして幕を引く。
 しかし、その方法では、社員の安全意識を向上させることはできない。事故当事者は叱られたことを反省するが、運が悪かったと思うだけであり、運転行動は変化・進化しない。そして他の社員も、事故の原因について真摯に向き合わず、その結果、交通事故は増減を繰り返す。
 
 さて、自動車とは安全で快適な乗り物である。ならば、交通事故を防ぐ安全運転が、強制されて行う苦痛なものであるはずがない。私たちの安全運転とは、楽しいものであるはずだ。 
 ところが、運転とは、多くの場合は手段にすぎない。会社へ行くための運転、買い物のための運転など、運転することが目的ではない。それ故、そこに落とし穴がある。運転する先の目的のことに思考を奪われ、現実の安全意識が乏しくなることで、事故は発生する。
 しかし、自動車を運転することを通じて、私たちはどれほどの豊かさを享受してきたか。遠くまで自由に移動することで、私たちの可能性、人生の豊かさは格段に広がった。
 例えば、包丁は、肉や野菜を切るものであり、自分の指を切ったり、他人を刺したりしてはいけない。
 自動車は安全に走るべきものであり、そのためには、譲り合い、歩行者を優先し、止まるべき場所では確実に止まる、そんな誇るべき安全運転こそが必要である。
 
 安全運転とは、教えられるだけで身に付くことはない。自分で考え、その大切さを思い、安全運転を決意しなければ、運転行動は変化しない。それ故、相応の時間が必要である。
 富士山のわき水は、昨日の雨ではない。数十年から百年前の雨水が今、わき水となって私たちの喉を潤してくれる。
 今日降り続く雨が、明日のわき水にならないから無駄なのではない。降り続けることによっていつか、やがてそれはわき水になる。
 私たちが取り組む交通事故防止活動、各会社・事業所で取り組まれている安全運転管理とは、今日の事故を防ぐことが目的ではない。
 安全運転を行うこと、続けること、習慣とすることの大切さを伝え続けることによって、いつか必ず誰かの事故を防ぎ、社員の人生と幸せを守る。そして、会社組織は進化する。
 今日のわき水がいつの雨なのか、今日の安全がいつの教育なのかわからなくても、そこに価値を認めて継続すること、それが企業としての課題であり、進化である。