コスト

2021年11月

 警察法は第2条で「警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ……」と規定した。生命の価値は無限大であることから、生命を守るためのコストは無限大である。そのため、人質立てこもり事件が発生すれば、人質を無事に救出するため警察の総力を挙げて対処する。一方、財産を守るためのコストには限界がある。そのコストとは、経費のことではなく、被害を防ぐために市民や関係者にかける負担のことである。
 
 平成の終わり頃、K警察署管内では振り込め詐欺の被害が続発していた。当時の手口は、金融機関で現金を下して送らせるというものであり、金融機関の窓口で止めることが最大の対策であった。
 金融機関も協力してくれていたが、預金者から「リフォームする」「車を購入する」と説明されれば拒否できず、被害は急増していた。その被害を防ぐために残された方法とは、預金者に対して警察官が直接確認することだった。しかし、そのためには金融機関から直ちに通報してもらい、警察官が到着するまで預金者を待たせることなどが必要となる。
 
 その日、K警察署の講堂に集まった金融機関の支店長等は不満と不信感を募らせていた。署長の説明が終わるとすぐに反対意見が出た。「それはお客様を長時間待たせることになる。大半は被害者ではないお客様であり、支店レベルでは苦情に対応できない。少なくとも県下で統一してほしい」
 K署長は答えた。「通報依頼は、警察署長の私から支店長の皆さんへの協力依頼にすぎません。ご協力いただけずに被害が発生した場合は、その旨をマスコミに伝えます。支店長として、預金者の便宜を考慮して通報しなかったことを説明してください。私の通報依頼と支店長である皆さんの判断と、市民や預金者がどちらを支持するか、その時にわかります」
 それまで黙って聞いていた有力金融機関の支店長は腕を組んだまま言った。「けんかを売る気ですか?」しかし、署長は譲らなかった。「振り込め詐欺の被害とはお金ではありません。これまで誠実に生きてきた高齢者の人生が奪われるのです。お金を守るのではなく、人の人生を守るために協力をお願いしているのです」
 
 その後、通報は増え、1日に10件を超えるほどの通報があった。そのたびに、交番、パトカー、生活安全や刑事の警察官が金融機関に走り、待たせたことを詫びながら預金の使途を確認した。その結果、約2%は本当に騙されていた被害者だった。
 その2%の評価を問われた時、K署長は答えた。「預金者や金融機関の皆さんには大変な負担をかけております。しかし、私たちの社会が守るべきは高齢者の人生なのですから、守ることのできる人生がある限り、2%が0.2%になっても私はこの対策を止めるつもりはありません」
 
 さて、私たちは交通事故を防ぐためにどれほどの手間(コスト)をかけているのでしょうか。命を守るためのコストは無限大とはいえ、日々運転する中で払うことのできる注意力(コスト)には限界があります。しかし、「みんなと同じで大丈夫」、事故を起こしても「運が悪かった」「相手も悪いんだから仕方がない」という考え方ではあまりにも不十分、事故を減らすことなどできません。
 あなたにとってご家族の命の重さが無限大であるように、これまで交通事故で傷付き、失われてきたその命とは、ご家族にとってかけがえのない無限大のものであったはずです。
 運転中にどれほどの注意(コスト)を払うべきか、それはあなた自身が決めることですが、運転中のあなたの注意力とは、あなた自身が考えている命の重さに比例しているのです。