人は自由か? 平等か?

2018年 8月号

 その昔、学校で教わった記憶がある。「人は自由で平等です」。その意味はよく理解できなかったが、何かほめられたような感覚があった。
 成長して、自分で勉強した。1948年の国際連合総会で採択された「人権に関する世界宣言」、通称「世界人権宣言」、その第1条に「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利について平等である」と明記されている。
 また、日本国憲法は、第11条で「この憲法が保障する自由及び権利」として、自由や権利は憲法が与えるのではなく、憲法はそれを保障するに過ぎないこと、第14条では、すべての国民が「平等」であることを明記している。
 しかし、本当にそうであろうかと考えた。それらは理念であって現実ではない。人は生まれた時から能力も環境も異なり、決して平等ではない。そして本当に私たちは自由なのか?そもそも民主主義とは何か?……それは、人類が過去様々な政治制度を経て辿り着いたものではあるが、現実の根拠に基づくものではなく、人が信じる(認める)ことによって成立しているに過ぎないのではないか。

 その後、運動会で順番を決めず、手をつないでゴールする光景を見かけた。かけっこをすれば早い子と遅い子がいるのは当然であるのに、それを同じにすることが公平で平等なのか。それは虚構ではないか。
 中学校の校長先生との会議でバレンタインデーが話題となった。「バレンタインデーはチョコの持ち込みを禁止しています」との説明に対し、私が「何故ですか?」と質問すると、「だって、もらえない子が傷つくじゃないですか!」と返された。
 確かにもらえなかった子は傷つくかもしれない。しかし、人は傷ついて成長していくのではないか。あいつが10個もチョコをもらえたのは何故か。優しいからか、勉強ができるからか。そして自分の足らない部分を考え、何とかしようと思った。私は、それを繰り返して大人になってきたように思う。
 傷つくことを知らされず、誰もが平等で公平だと教えられて卒業した若者は、社会に出てそれが虚構であることを知らされる。
 会社に入れば最初から仕事の内容が違い、給料が違う。あれをしろこれをしろと強制され、社会では平等でも公平でも自由でもないことを身をもって体験する。常に自分よりも偉い人物が存在し、理由もなく冷遇されることもある。しかし、多くの人はそれを克服しようとして成長していく。
 一方で、克服しようとする気持ちを失えば、その人に残るのは不満と反発である。あいつが悪い、こいつのせいだ、会社が悪い、上司のせいだ、社会が悪い……。そして、そこには何も生まれず、社会現象として増加しているのはDV、ストーカー、児童虐待、あおり運転などである。

 さて、ドライバーであるが、ドライバーこそ自由ではあり得ない。運転免許とは、道路交通法令を守って運転することを前提条件として運転することを許可されたに過ぎない。そうでなければ、自動車は凶器と化し、他の人々の自由や権利が侵害されるからである。

 傷付いて成長した大人は知っている。他人の自由を尊重してこそ自分の自由があり、他人の権利を認め、自分の義務と責任を果たしてこそ自分の権利が認められることを。
 ドライバーの義務と責任、それは説明するまでもない。