善意の違反

2022年 6月号

 行政相談委員を務める友人から相談を受けた。「駐車違反で検挙された住民からの苦情を受け、説明したが納得が得られなくて困った」とのこと。その住民は、体の不自由な独居老人宅の清掃をするため、その家の前に駐車した。その周辺は駐車禁止場所であったため、駐車監視員に駐車違反ラベルを貼られて立腹した。本人の訴えは次の2点であった。
  1 駐車している理由を確認すべきだ。(私は善意だ)
  2 その理由を聞いた上で判断すべきだ。(許すべきだ)
 私は友人に向け、思っていることを率直に伝えた。

 駐車違反に限らず、善意の違反と悪意の違反は存在するのだと思います。しかし、刑法が規定する文書偽造罪や背任罪等の目的犯とは異なり、道路交通法が規制するのはその客観的な違反行為であって、その目的は問いません。
 もちろん、違反行為(犯罪)が成立するためには、形式的な行為だけが判断されているのではありません。一般的に違反行為は許されない行為であるため、改めて議論されることは少ないのですが、例外はあります。
 例えば、車で走行中に道路上に寝ている人を発見した場合のことを考えてみます。ドライバーは寝ている人の手前で車を止め、安全な場所まで移動させるでしょう。この場合、車を止めた道路上が駐車禁止場所であっても駐車違反として検挙されることはありません。それは、医者が患者の体をメスで切開する手術を行っても傷害罪で逮捕されないことと同じ考え方です。
 
 日本では、常にどこかで駐車違反は発生していますが、駐車違反にも善意と悪意は存在するのでしょう。しかし、駐車監視員にその理由を聞き、判断する裁量権は与えられていません。形式的に、客観的に駐車違反であるのか否かを判断することだけが業務として与えられています。
 そこにどのような善意の事情があれ、悪意の事情であれ、
 「駐車禁止場所に放置された車両が与える迷惑、危険性は同じ」
だからです。駐車監視員に温情がないのではなく、温情を持たせてはいけないからであり、それは、警察官にも与えられていません。
 そして、自分の行為の目的が善意であれば、多少の違法行為も許されると考えるのは正しくありません。厳しい言い方をすれば、それは思い上がりです。
 善意の行為とは、様々な負担を承知した上でそれを引き受けて行うべきものであり、だからこそ讃辞に値します。善意の清掃であれば、駐車禁止場所ではない離れた場所に車を置くという面倒な手間も引き受けるべきでした。ルールを守る手間を引き受ける覚悟がない善意とは、自分勝手な善意といわざるを得ません。厳しいことを申し上げますが、正直な私の意見です。
 ……。私の回答を聞いた友人は納得してくれた。理解してくれる人に説明することは簡単です。理解しない人への説明こそ大切であることは承知しているのですが、それは本当に難しいことだと繰り返し思っています。
 
 多くのドライバーが交通ルールを守るのは、事故を防ぐためではなく、検挙されないためのようです。つまり、その程度の交通違反で事故を起こすことはないから、警察に見つかって検挙されなければ多少の違反はかまわないと考えているようです。
 しかし、交通ルールの価値とはそんなつまらないものではありません。交通ルールを守ることによって交通事故を防ぐこと、それはかけがえのない人の命、その心と体を守ることにほかなりません。互いに交通ルールを守ることによって、私たちの力で安全で快適な交通環境を創り上げることができることを知ってほしいのです。