安全の対価

2018年 5月号

 自動車の安全機能が急速に進化し、安全性能は飛躍的に向上しています。しかしその機能は、安全運転に努めてもなお過失から逃れられない人の未熟さ、不完全さ、あるいは加齢により避けることのできない肉体的・精神的能力の低下をサポートするものであり、スマホ運転などの身勝手な運転を擁護するものではなく、断じて「スマホ運転支援機能」ではありません。
 そして、自動車の安全機能をお金で購入することはできますが、お金で購入した安全機能とは、「安全」ではなく「安心」に過ぎません。「安心」とは、その人にとって具体的な危険や危険の可能性が気にならないというイメージ(空想)に過ぎないのです。
 一方、「安全」とは現実であり、人が自分の力で守るものです。その「安全」を手に入れるために必要なものとは、人としての誠実さであり、考える力(理性と想像力)です。そして、安全の対価とは、手間暇、努力と注意力なのだと思っています。

 普段、私たちは必要なものがあれば対価を支払って手に入れています。一般的にはお金を払って物を購入します。
 では安全運転はどうか。誰もが事故を起こしたいとは考えていませんが、事故は発生しています。事故を減らしていく、安全を手に入れるためには、現在の私たちが行っている安全運転のレベル(安全運転意識)では不足しているということです。
 自動車の安全機能が向上したのであれば、それ以上に事故を減らそうとするドライバーの意志がなければ、実質的に事故を減らしていくことはできません。
 今から40年ほど前、自動車にABSが装備されました。関係者は、これで事故が大幅に減少するに違いないと考えましたが、現実にはほとんど減りませんでした。調査の結果、その理由が明らかになりました。ABSの自動車に乗ったドライバーは、タイヤがスリップしないからと安心し、速度を上げて走っていたからでした。
 しかし、それ以後も、私たちは同じ過ちを繰り返しています。全国で最も死亡事故が多発した昭和45年と比較して、昨年は約1/5にまで減少していますが、自動車の安全機能の進化や道路構造などの交通環境の変化を考えれば、死亡事故は1/5ではなく、1/10以下にすることも可能だったのではないでしょうか。

 それを補うのは私たちの交通安全意識であり、事故減少の効果が少ないのは、私たちが安全運転の価値を十分に理解していないということにほかなりません。
 安全運転が大切であることは誰でも知っています。そして誰もが安全運転に努めているつもりでいますが、それでは十分ではないということを知らなければなりません。
 安全運転が難しい理由については昨年4月の編集雑記で書きましたが、最も大きな理由は「自己過信」、私は大丈夫だという思い込みです。それを払拭することは容易ではありませんが、それができなければ安全機能の進化の効果は半減します。

 人の知恵とは、人を律し、人を進化させるものです。私たちの知恵は、新しい機能を創り出すことだけではなく、それを活用することにも発揮されなければなりません。人として進化することで、安全に対する価値を認め、他人の自由への配慮ができるようになり、安全運転を行うことが習慣となるからです。技術と共に人として進化しなければ、安全のための技術も、その効果は発揮されません。
 安全の対価、安全という現実を私たちのものとするために必要なものとは、人としての誠実さと考える力、そして手間暇、努力と注意力であり、それは何よりも、人としての知恵であると考えています。