弁当

2020年11月号

 私たちは食事をとる。生きるため、おなかが空くから私たちは料理を食べるが、空腹を満たし、生きるための栄養を確保するだけであれば、水と必要なサプリメントなどを摂ればよいことになる。しかし、食事を摂る、何かを食べることの価値はそれだけではない。
 スーパーへ買い物に行き、食材を選んで購入し、自宅に持ち帰って調理する。残った食材を片付け、出来上がった料理を盛り付けて食べる。食べ終えたら後片付けをして、ゴミを出し、ようやく食事という作業が完結する。
 この食事を巡る買い出しから後片付けまでのそれそれが、食事をすること、生きていることの価値である。弁当を食べることでは満たされない喜び、生きていることの価値がそこにある。
 
 さて、高齢者の事故を防ぐために運転させない、買い物に行かせない、代わりに弁当を配る。そんな施策、対策があったとすれば、それは高齢者の生きる尊厳を踏みにじるものだ。
 人は生きているモノではない。強制的に配る弁当とは、動物に与えるエサと同じである。人に対してエサを与えておけばよいと考えることなど、ただの思い上がりである。手間暇かけても自分で買い物に出かけ、調理して、片づけるという行為は、生きるために食べるということだけではなく、人として生きるということそのものだからである。
 私たちの社会が抱えている課題は複雑多岐にわたり、その解決は極めて困難である。高齢化に伴う交通事故防止という課題もそのひとつであり、それはその他の多くの課題と絡み合い、交錯している。決して交通環境だけの課題ではない。交通事故という課題は、高齢者、そして私たち全員が、この社会の中でいかに生きがいを持って生きていくのかという社会全体の課題を構成するひとつにすぎないのだ。
 そして、高齢者が運転することの目的とは、買い物や家族の送迎であり、あるいは趣味の活動であったりするが、それは、移動することが目的なのではない。運転することによって、高齢者として生きることそのものを実現しようとしているのだ。
 
 難しい課題を簡単に整理してはいけない。難しく、複雑多岐に絡み合う課題を単純化すればわかりやすくなるが、単純化された対策だけで複雑な課題を解決することはできず、大切なことを見落とすからである。
 例えば、高齢者は運転しなければ事故を起こさない、だから免許証を返納させればよい、という単純化された対策だけで高齢者の事故抑止対策は完結しない。運転する必要のない人の返納は、そもそも運転しないのだから事故の抑止効果は少ない。また、運転の必要があるのに返納した高齢者は自転車などで買い物に出かけることとなり、加害者としての事故は減るが、被害者としての事故は増加する。そして、返納すべき危険な高齢ドライバーこそ返納の必要性が理解できずに運転を続けているからである。
 
 高齢者の交通事故対策とは、個別の独立した課題ではない。私たちが目指すべき社会の在り方とは、できる人ができない人を支えるという社会であったことを考えれば、高齢者を悪者にして解決する課題ではない。それぞれの世代が互いに支え合い、生きがいを持つことのできる社会作りという全体構想の中にこそ、高齢者の交通事故対策の答えを見つけていかなければならない。
 今、もう一度その難しさを認め、正しく向き合うことから始めなければならない。どれほど複雑多岐にわたる困難な課題であっても、私たちにできることは必ずあるはずである。