強制すれば過失(事故)はなくなるのか?

2019年 2月号

 「事故するな!」、これは多くの会社・事業所において管理者から部下に向けて発せられる指示であり、あちこちで見られる光景であろう。しかし、その指示で事故は減ったか、なくなったか?

 交通事故とは、人と車が錯綜する中で、双方の過失が競合することによって発生する。つまり、交通事故とは過失であり、事故回避のための情報処理の誤りである。そして、人は過失から免れることはできないが、自らの意志によってそれを限りなくゼロにすることはできる。

 例えば、人身事故の1/3は追突であり、追突の原因は前方不注視である。であれば、前方の注視を怠らなければ追突事故の大半は防ぐことができることになるが、「前を見ろ」という指示で追突事故をなくすことはできない。何故ならば、誰もが「前を見ているつもり」だからである。
 では、前を見ているつもりなのに、ついウッカリ、前を見ることが疎かになるのは何故か。よそ見か、ボンヤリか。よそ見の原因はスマホに気を取られたか、ボンヤリの原因は何か。それを考え、解決の方法を見つけなければならない。

 事故を減らすということは、問題を解決することであるはずなのに、「事故するな!」との指示は何も解決していない。問題を部下に丸投げして自分の責任を果たしたつもりでいるが、何の義務も責任も果たしていない。原因となる動作・行動の何故かを考え、具体的な対策を講じなければ問題は解決しないからである。
 スマホを見るなとの指示は可能であるが、ボンヤリするなの指示は困難である。スマホを見ることは故意であるが、ボンヤリしてしまうのは故意ではなく、過失だからである。

 過失を減じるのは、本人の意志である。その意志は、その行為に関する価値観によって生まれ、行動規範としてその人の行動を規制する。安全運転に対する価値観を持った人は、安全運転を実践し、それが習慣となる。
 つまり、安全運転に価値を認めて自らの行動規範とすることができるか否かはその人の価値観に委ねられている。したがって、会社組織の上下関係に基づいた計画を立案し、その実践を強制するだけでは過失の競合である交通事故をなくすことはできない。

 過失をなくせとの指示・命令は、それが強力であるほど部下職員を萎縮させ、隠蔽につながっていく。そして、隠蔽を理由に部下を批判し処分する。そんな組織を成熟した組織とはいわない。若者がそんな組織で働きたいという気持ちを持つことはない。
 成熟した組織とは、職員が相互に信頼関係を築き、コミュニケーションを深めて支え合う組織のことである。そこでは交通安全、安全運転に関する価値観が認められており、個人の高い安全意識が尊重されている。

 交通事故を減らすこと、死亡事故をなくすことは容易ではなく、強制力だけでは解決することができない。
 この課題を解決するためには、「何故か?」をきちんと考えること、相互の信頼関係とコミュニケーションを深め、互いに認め合うことから始めなければ解決の道を辿ることはできないと考えている。