得る、失う、守る

2025年 9月号

 何かを得るための努力は、わかりやすい。しかし、形なきものを守る努力は、難しい。
 ここにある形なき大切なもの、それは健康と安全のこと。健康と安全に支えられて私たちの生活、幸せは成立している。健康に関する私たちの意識は高く、努力を惜しまない。しかし、安全を守る努力は難しく、忘れられがちである。
 
 安全という形なきものを守るために、私たちは安全運転に努めている、つもりである。しかし、私たちのその運転は、本当に事故を防ぐことのできる、安全運転としてのレベルを備えたものであるのかと思う。他の車と同じ程度の運転で大丈夫だと、勝手に思い込んでいるだけではないのか。検挙されるかどうかを基準にした、拙い運転ではないのか。
 その結果、検挙されない程度の違反を繰り返す。他の車もそうだからと、40km/hの規制道路を55km/hで走り、雨が降っても、夜になっても同じ速度で走り続ける。そして、歩行者の発見が遅れて事故を起こす。
 その程度の安全意識で、事故を防ぎ続けることなどできない。そんなレベルの運転を、安全運転とはいわない。その結果、一年間で2千人をはるかに超える人の命が奪われ、そのご家族の悲しみは積み重ねられ、消えることはない。そして、加害者の人生は失われ、その家族の幸せも消えていく。防ぐことのできる交通事故の現実に対して、私たちは大切なことを看過してきたのではなかったか。
 罰則の有無強弱、検挙されるか否かによって自分の運転行動を規制するのではなく、自分が事故を起こさない運転の方法について、本気で考え、実行すべきである。
 
 ドライバーは、一人で運転しているのではない。その道路には他の自動車が走り、歩行者が歩き、自転車が走る。車内は一人であっても、決して一人で運転しているのではない。
 交通事故のない、安全で快適な交通環境とは、一人の運転行動だけではなく、他の多くのドライバー、そして歩行者、自転車と共に譲り合い、支え合ってこそ実現できる。
 走行中のドライバーは、車内が自分だけの居心地の良い空間であるために、慢心することが多い。しかし、自分が優先であることを過信し、漫然と運転してはならない。常に謙虚に、他車、歩行者、自転車への配慮と、譲り合う気持ちを忘れてはならない。
 私たちが社会の一員として生きていくためには、自分の権利を主張する前に、社会から求められている義務と責任を果たすべきであるが、それと同じである。
 
 例えば、「ながら運転」で得られるその時の満足感、それと引き換えに失われる被害者の命、家族の幸せ、そして自分の人生。
 私たちは得られるものに気持ちを奪われ、それと引き換えに失うものの大きさを忘れてしまう。
 どれほど自動車の安全機能が進化しても、ドライバーの安全意識が向上しない限り、私たちは人を傷付け、時にその命を奪う。
 もちろん、どれほど安全運転に努めていても、絶対に事故を起こさないという保証はない。しかし、そんな保証などなくても、安全運転を行う、それを習慣とすることの価値を認めるべきである。
 安全運転に努めていれば、ほとんどの事故を避けることができる。少なくとも、死亡事故は、ほぼゼロにできる。
 保証などなくても、安全運転に努め、続け、習慣とする。そのための安全意識とは、私たち自身の力によってのみ、向上させることができる。それは、一人一人のドライバーに対する私たちの社会の問いかけであり、現代を生きる私たちの、人としての価値が問われていることを思う。