最高傑作

2021年12月号

 音楽家の友人がいる。プロではなく、いくつかのアマチュア交響楽団に所属してオーボエを吹いている。温厚で誠実な、誰からも信頼される人物である。そんな彼に「クラシック音楽の最高傑作は何か?」と尋ねると、「マタイ受難曲」と即答された。
 それはキリストの受難を題材にしたバッハの作品であり、ドイツ語の歌曲などで構成され、演奏時間は約3時間に及ぶ。
 キリスト教の知識がなく、ドイツ語を知らない私には無縁の存在だと思われた。とはいえ、質問した以上聞き流すのは失礼なので、「いつかその最高の境地を理解できるようになりたい」と応じると、「それは違います」と真顔になった。「最高の作品は最後に辿り着くべきものではありません。最高の作品こそ少しでも早く、そして何度でも聴く価値があるのです」ときっぱり。けだし名言である。
 確かに、音楽に限らず、最高の芸術とは難解であることではない。人によってその評価は異なるが、音楽であれ、絵画であれ、そこに多くの人に何かを伝える力があるからこそ時代を超えて高い評価を得ているのであろう。彼の慧眼(けいがん)に感服した。
 
 このことは、私たちの交通安全活動にも通じる。交通死亡事故ゼロを目指すことなど、多くの人にとって実現不可能な理想であるように思われ、自分の取り組むべき課題とは感じられないのかもしれない。
 多くのドライバーは、これまで何年も事故を起こすことなく運転してきたのだから、これで充分なのだと思ってしまう。仮に交通違反で検挙されたとしても、それが事故につながる危険な運転であったことを反省するのではなく、警察官に見つかったことを反省し、運が悪かったと結論づけてしまうのだ。
 しかし、死亡事故ですらごく普通のドライバーによるありふれた過失によって発生しているという事実、現実について、私たちは正面から向き合い、もう一度考え直す必要がある。
 これまでの運転、それが過去に事故を起こさなかったものであっても、それでは死亡事故をなくすことはできない。これからも誰かが死亡事故の加害者となり、被害者を生み続けることになる。これまで幾度も繰り返されてきたこの現実を認め、事実を受け止め、私たちは意識を改め、運転行動を進化させなければならない。
 
 今こそ、最高の安全意識を備えた安全運転を始めるべきなのだ。最高の安全運転とは、高度の運転技術を必要とするものではなく、達成することが困難なことでもない。それは、安全運転を続けることに価値を認め、それを望むことによって誰もが実現可能である。
 「マタイ受難曲」を聴くためには、日本語の対訳を用意して約3時間の継続的な集中力が求められ、その価値を堪能するためにはそれを繰り返すことが必要であるが、最高の安全運転を実行するために必要なこととは安全運転を続けることに価値を認めることであり、穏やかな気持ちと人を思いやるやさしさがあれば充分である。
 
 そして、交通事故の悲惨さはもっぱら被害者遺族の立場から伝えられるが、その反対側には加害者やその家族の嘆き、苦しみ、そして絶望が存在することも忘れてはならない。
 つまり、交通事故を防ぐということはすべての人の人生を守ることに他ならず、それを思えば、必要とされるわずかな努力を惜しんではならないはずである。
 最高の安全運転とは、決して難しいものではない。安全運転を続けることに価値を認め、それを望むことによって誰にも実現可能な運転のことである。今日から、一人でも多くの人たちとともに最高の安全運転を始め、続けることによって、私たちは私たちの力で交通事故を半減させ、死亡事故をなくすという夢、最高の交通環境を創ることができるはずである。