理性と想像力

2023年 8月号

 1967年、イギリス人哲学者ラッセルの提唱により、世界中の知識人を集めて米国等の戦争責任を問う裁判が開かれた。その席上、裁判長を命ぜられたフランス人哲学者サルトルは、戦争責任を裁く根拠を問われ、「それは我々の理性である」と語った。
 その文章を読んだ時、私は混乱した。人を裁く根拠は法律であり、法律がなければ裁かれない、罪に問われないと考えていた。しかし、その言葉を読んで考えた。そもそも法律の根拠とは何か、その法律が生まれた背景や目的は何なのか。
 しばしばそれは、公共の安全とか秩序の維持という言葉で説明されるが、ではそれは何を根拠として、何を基準に判断されるのかと考えたとき、再び「理性」という言葉が私の中に浮かんできた。
 
 安全運転の要素であるドライバーの安全意識、それを支えるのは法的強制なのか、人の知性なのか、それとも理性なのか。
 過去、私たちは繰り返し何度も交通事故の悲惨さを教えられ、学んできたはずである。にもかかわらず、未だに漫然とした運転による死亡事故が後を絶たない現実の前で、知識や社会制度による意識の進化を期待することができなくなっている。
 ドライバーの安全意識を進化させ、交通事故に関する課題を克服するためには、知識では足りない。それは、私たちの理性が支えるものでなければならない。
 罰則の有無強弱で自分の運転行動を評価・判断するのではなく、交通事故の加害者にも被害者にもならない運転について、自分で考え、判断して、それを実行することが求められているからである。
 
 私たちが安全運転を習慣とするために必要とされる安全意識、これを伝え、身に付けるために必要な人の能力とは何かと考えたとき、この「理性」という言葉と共に思い浮かんだのが、ノーベル文学賞大江健三郎氏の「文学とは想像力である」という言葉だった。
 その言葉は、文学の持つ意義、価値についてのひとつの結論なのか。つまり、文学の存在価値とは、言葉という表現方法を使って人の持つ想像力に働きかけることにあり、それは無限の可能性を秘めているということを示しているのではないか。
 そしてそのことは、文学にとどまるものではない。絵画はその瞬間に全体を眺めることができるが、音楽は奏者の時間、文学は読み手の時間が必要である。しかし、その時間を比較することは無意味・無価値である。それぞれの社会の中で、人が生きていく中で、文学であれ音楽、美術であれ、それが存在する必要性やその価値とは、人の想像力無くして成立しない。それが集まって知恵となり、人や社会を豊かにし、進化・発展させてきたことを思う。
 安全運転もしかり。他人の運転を基準とし、自分は大丈夫と自己過信に陥って漫然とした運転を続けるべきではない。自ら事故を起こす前に、交通事故を伝える報道や被害者ご家族の言葉に向き合い、想像力を発揮して自分の経験に置き換え、事故を防ぐための努力を積み重ねるべきである。
 
 安全で快適な交通環境を目指し、交通事故のない社会を実現するためには、交通安全に価値を認めること、安全運転を続けることに価値を認めることが必要である。
 会社・事業所の交通安全に対する価値観が組織の安全管理を支え、安全運転の価値観がその人の運転行動を規制している。
 交通安全の価値を認めることとは、交通事故を経験しなくても自らの行動を規制する力を持つことであり、それは想像力に委ねられ、理性に支えられている。
 現代の私たちが交通安全の価値を認め、安全運転を続けるために必要な能力、それは「理性と想像力」なのだと思わずにいられない。