生きる資格

2019年10月号

 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」……これは、米国の作家レイモンド・チャンドラーが主人公の私立探偵フィリップ・マーロウに言わせた名言です。

 人の優しさや誠実さは人としての豊かさを育み、人と人とのつながりを成熟させ、優しく誠実な人は多くの尊敬を集めます。
 しかし、もし交通事故で誰かを傷つけ、命を奪うことになれば、その事実は優しい人ほど自らを傷つけ、誠実な人ほど生きていく喜びや人としての誇りを失わせてしまうことになります。その優しさや誠実さが、自分の過失や結果に対して何度も反省や後悔を強要するからです。

 いつものように車を運転しながら、わずかな過失によって交通事故は発生します。過失の程度と結果の重大性は比例しません。ありふれたわずかな過失が人を傷付け、時にその命を奪ってしまいます。
 もしその過失が事故につながることがわかっていれば、誰もがその過失を防いだことでしょう。誰でも防ぐことができたはずのわずかな過失、それが結果として交通事故を発生させています。
 しかし、そんな過失がありふれていることは何の言い訳にもなりません。その過失を避けることができたのにそれを避けることをしなかった、そして事故を発生させた以上、ドライバーとしてその責任を負うのは当然です。

 今、自分の仕事に誇りと生きがいを感じ、家族とおだやかな人生を過ごしていること、それはかけがえのない大切なものであり、決して失ってはならないものです。しかしそんな穏やかな幸せは、何もせずにいつまでも存在するものではないことも私たちは知っています。それを守り、失わないために、私たちは心を配り、守り続けるための努力をしなければならないのです。

 交通事故と無縁であることによって自分自身を守り続けなければなりませんが、それは、安全運転を続けることに価値を見つけるということです。安全運転の価値を認め、それを続けることがドライバーの義務であり、果たすべき役割なのだと自覚することです。
 交通事故は毎日何件も発生していますが、出来事の重要性とは、発生数の多寡ではありません。たとえその日に百件の交通事故が発生したとしても、当事者にとってはその1件の交通事故がすべてであり、その人生を左右するからです。

 優しさや誠実さが人を傷付けるような出来事(交通事故)が繰り返される社会、そんな社会が正しいはずがありません。優しく誠実な人が尊敬され、優しさや誠実さが社会を支える礎として尊重される社会こそ、私たちが思い描いてきた社会の姿であったはずです。

 「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」というこの言葉は、車が歩行者を守るという新しい交通環境を目指す私たちにエールを送ってくれています。
 交通安全の価値を認めて安全運転を続ける「強さ」を持ち、歩行者への気遣いができる「優しさ」がないのであれば、その人に自動車を運転する資格などないことを教えてくれているからです。