知覧という場所

2019年 8月号

 友人が鹿児島を訪れるという。折角の機会に行くべき場所はあるのかと問われ、突然、「知覧」を思い出した。
 もう30年も前になる。あの場所で、死に行く若者の手紙を読むうちに胸が詰まり、涙が止まらなくなった。予定の時間を過ぎても椅子に座ったまま、長い時間をその場所で過ごした。
 若者を死に追いやる社会とは何だったのか、死ぬことが正義なのだと教える、それが許される社会とは何だったのか。そして、私たちは何を学んできたのか、……。そんな記憶が蘇った。
 楽しい場所ではない。決して忘れることのできない場所、人として忘れてはならない場所なのだ。その覚悟があるなら是非、と紹介した。

 私たちが学んだこととは、戦争の悲惨さだけではなかったはずだ。人が傷付け合い、命を奪い合うことの悲しさだけではなく、人の命の尊さ、大切さこそを学んできたはずである。
 交通事故で命を奪われた人の数がどれほど減少しようとも、失われたその人の命が帰ってくることはない。ご本人の無念さ、ご家族の悲しさが癒やされることなどない。人の命とは、それぞれの、そのひとつが全てであることを私たちは知っているはずなのだ。
 戦争こそ、その度に批判され、反省されながら人の歴史の中で今もなお繰り返されているが、戦争であれ、交通事故であれ、失われた命は等しく人の命である。

 交通事故でケガをした人の数、そして亡くなられた人の命の数を聞きながら、この現実の前で私たちは鈍感に過ぎる。交通事故が毎日繰り返され、ありふれた出来事となることで、その重大さを感じられなくなっている。
 その結果、発生した交通事故に対して、命に別状がなくてよかったとか、軽傷なら後は保険屋に任せてなど、処理することで結末を付けようとしている。
 自動車を運転することとは、人を傷付けてはならない責任を背負い、常にその義務を果たし続けることである。しかし、多くのドライバーは、ありふれた注意を払うだけでその義務と責任を果たしていると勘違いしている。避けることができた事故ですら、運が悪かったとか相手が悪かったとか、ついうっかりしたなどと言い訳をして責任を回避する。それは、自分の背負うべき責任の重さを理解していないからだ。そんなドライバーに自動車を運転する資格などない。

 「理性はゆっくりと歩いてくるが、偏見は群れをなして走ってくる」とは、思想家ルソーの言葉である。
 理性とは、自動車を運転することの責任の重さを知り、安全運転を続けることに価値を認め、自ら安全意識を高めようとするその意志のことであろう。確かにその歩みはゆっくりとして、それを自分の行動規範とするためには相応の努力と時間が必要である。
 そして偏見とは、私は大丈夫だと思い込み、自己過信のままに運転を続けるドライバーの群れのことか。そんな群れに飲み込まれ、車をぶつけられてケガまでして、運が悪かったなどとうそぶかれたのでは堪らない。
 交通事故の重大さ、運転することの義務と責任の重さを考える力、それを自分の行動規範として運転行動を規制する力こそ、現代を生きる私たちに求められている。

 知覧という場所、30年を経て記憶は蘇り、「誠実に生きてきたか」と問いかける声が聞こえてくる。