自動運転と「不便益」

2020年12月号

 「自動運転の車」と安全機能の進化によって「事故を起こさない車」とは別物である。
 そもそも自動車とは私たち「人」が運転するもののことであり、自動車安全機能の進化が目指すのは、人として避けられないミスを補い、加齢に伴って発生する心身の衰えを補う機能である。
 一方、自動運転とは、コンピュータやAIが他のコンピュータやAIと連携しながら自動車をコントロールする。例えば、ある交差点に接近する南進と西進の自動車は、それぞれのコンピュータが互いに連携して衝突を避ける運転をする、ということである。
 
 私たちが自動車に求める機能とは、安全で快適で便利なことであり、事故さえ起こさなければよいというものではない。安全だけを優先するのであれば30km/hしか出ないようにすべきであるが、それは快適でも便利でもなく、自動車としての価値を失う。
 もちろん、速度が出ることには危険が伴うが、それはドライバーの安全意識でカバーしよう、カバーできるはずだと考えた。それが私たち社会の了解事項であり、それを前提として成り立っているのが現在の私たちの交通環境であり、私たちの社会である。
 
 さて、自動車とは第一に移動手段であり搬送手段であるが、決してそれだけではない。そこに個人の価値観が反映され、運転することの喜び、楽しみ、満足感が存在する。だからこそ、現在も多種多様な自動車が設計・開発・生産され、販売されているのだ。
 自動車が単なる移動・搬送手段であるならば、種類は限定的になる。そして、移動・搬送手段としての車は事故を起こさないことが重要であるため、運転するのは「人」である必要はない。「人」にミスが避けられないのであれば、「人」でないことが望ましい。これが自動運転車であり、人が運転する「事故を起こさない車」とは別物であるが、その技術的な課題が共通していることから、同時進行で開発が進められている。
 
 そもそも安全機能とは、人として避けられないミスを補うもののこと、加齢に伴って発生する心身の衰えを補う機能のことであり、事故を自動的に防いでくれる便利さのことではない。
 そして便利さとは、無駄がないことだけではない。
 「不便益」という言葉を聞いた。不便で良かったことを「不便益」と呼ぶ。「例えば富士山の頂上に登るのは大変だろうと、富士山の頂上までエレベーターを作ったら、それはよけいなお世話というより、山登りの本来の意味がなくなります(不便益システム研究所)」と書かれていた。
 なるほど、一歩一歩足元を確かめて富士山に登るがごとく、私たち自身が日々安全運転に努め、これを続けることが運転することの価値なのであり、それによって自動車は安全で快適で便利な本来の機能を取り戻すことができるのだ。
 
 今後、安全機能が進化を続けることで事故は減少していくが、事故が減少したことだけで満足することはできない。私たちの社会の課題は交通事故・交通死亡事故の抑止・減少であるが、私たち個人にとって重要なこととは、私たち自身が、家族が、私たちの友人・知人・職場の仲間が、そしてその家族が交通事故の加害者にも被害者にもならない、なってはいけないということであり、この現実こそが私たちの課題だからである。
 今、私たちは、私たち自身の力で事故を減らし、死亡事故を無くすべき時代を生きている。現代のドライバーが果たすべき義務と責任とは、安全機能の進化に頼るのではなく、安全運転を行うことに自ら価値を認め、自分自身の力で安全運転を続けることである。