自由と安全、そして知恵

2022年11月号

 貧困や差別によって怒りが生まれ、それは暴力になる。現代でさえ、地球の複数の地域で紛争が続き、その背景として貧困や差別による怒りを見ることができる。その怒りが暴力となり、テロやゲリラにつながっていく。
 もとより、暴力など認められるべきものではないが、近代国家の目指した社会の姿とは、怒りや暴力をもたらす貧困や差別をなくすことによって、世界中の人々に自由と安全を保障することだったはずである。
 その一方で、現代を生きる私たちは、自由の本当の価値を知らないのかもしれない。空気のように、存在することが当然であるものの価値を認めるためには、相応の知性や感性が必要である。過去の経験は最初から存在するものの価値を認める力にはならず、その価値を認める力を持たない者はそれを守る努力をすることもない。
 失って始めてその価値を知る。それは自由も健康も安全も同じである。しかし、何かを失う前に、その価値を認めることを私たちは「知恵」と称して大切にしてきたはずである。
 
 さて、ドライバーが最も安全運転に努めるとき、それは事故を起こした直後である。しかし、事故を起こさなくてもそれを自らの経験値とすることはできる。過去から現在に至るまで、そしてこれからも発生するであろう交通事故について深く考えることによって、他の交通事故を自分の経験に置き換えることができる。それを自らの経験値として、安全運転に努めることができる。
 起こしてしまえば、その交通事故をなかったことにはできない。決してできない、誰にもできない、それは不可能である。その結果、ドライバーはその自由を奪われ、被害者は命を奪われる。
 私たちが自由と安全を守り続けるためには、知恵を働かせ、そこに価値を認めることが必要なのだ。自由も安全もそれを守るためにはいくらかの努力が不可欠であることを知らなければならず、守り続けなければやがて失われていく。
 
 しかし、事故を防ぐための知恵が自然に身につくことはない。そして、多くのドライバーと同じ程度の安全意識で事故を防ぐことはできない。日々発生する多くの交通事故は、そして死亡事故ですら、ドライバーのありふれた過失、誰もが犯している過失によって発生しているからである。
 交通事故の現実、その知識はより安全意識の高い運転へ変化をもたらすべきなのに、ほとんどのドライバーはその知識を「知恵」として自分の運転行動を変化させることはない。その結果、交通事故は繰り返され、多くの人の体が傷付き、誰かの命が奪われる。
 
 人の権利や自由とは、他人の権利や自由を尊重して初めて認められるものであり、そのために果たすべきことを義務という。私たちが自由に運転することができる権利、自由そして安全とは、これまで以上の安全意識を持って運転を行うという、相応の義務を果たすことによって得られるものである。
 自動車とは、そもそも安全で快適で便利な道具を夢見て誕生したが、これまでその自動車は、便利な道具であると同時に多くの人を傷付けてきた。
 今、私たちは「知恵」を働かせ、これまで実現できなかった安全で快適な交通環境を実現すべき時代を迎えている。そのためには、私たち自身が持っているつもりの安全意識を自ら問い直し、知恵を発揮することによって安全の価値を認めることが必要である。
 私たちが決して失ってはならない安全を守り続けるためには、これまで以上の高い安全意識を備え、安全運転を続けるという義務を果たし続けること、そしてそれを私たちの習慣とすることが必要なのだ。