運が悪い?

2022年 9月号

 秋の夜、午後7時半過ぎに交通死亡事故が発生した。
 郊外の片側1車線、規制速度40km/hの暗い道路を中年のドライバーはロービームのまま時速約55km/hで走行し、横断していた高齢者をはねた。そして、こう供述した。
 「私は10年以上、仕事の帰りは同じ道を同じように走っていました。この道路の制限速度が40km/hであることは知っていましたが、他の人も55km/h位で走っており、自分だけが速度を守ると後ろの車に迷惑なので、同じように55km/h位で走っていました。
 帰りは午後7時過ぎですので、当然ヘッドライトは点灯します。ハイビームも使ってみたことはありましたが、うっかりそのまま走って対向車に迷惑をかけたことがあり、それ以後は使わないようにしています。
 それでも、これまで事故を起こすことはありませんでした。
 今回も、これまでと同じように運転していましたので、高齢者の方が黒い服を着て、横断歩道でもない場所を渡っていなければ、私は事故を起こすこともなかったのです。
 私は運が悪かったと思います」
 
 この供述調書を読んだ警察署長の顔色が変わり、交通課長に告げた。「悪かったのは運ではない!」署長は続けた。
 この時、後から追走する車両などなかったにもかかわらず、この運転者は約55km/hで走行している。つまり、この運転者の速度違反は習慣であり、後ろの車に迷惑をかけたくないなどというのは言い訳にすぎない。そして、ハイビームは対向車に迷惑というのも言い訳であり、こまめに切り替えるのが面倒なだけだ。
 こんなつまらない言い訳が許されるはずがない。もしもどちらか一つ、速度を落とすかハイビームにして、前方を注視して運転していれば、横断する歩行者を発見して回避することができたはずだ。
 それを怠り、避けることができたはずの事故を起こしたのだから、その責任が運転者自身にあるのは当然です。自分の過ちを理解させ、反省させなければ、この運転者はこれからも同じ運転を繰り返し、いつかまた事故を起こします。
 「運」が悪かったのではない、悪かったのはあなた自身だと伝えなさい。
 
 例えば、満席の野球場で、バッターボックスから外野席に向けてライフル銃を発射する行為を考えてみる。人に当たればその命を奪うことにもなるが、人に当たったことを運が悪かったと言うだろうか?具体的な誰かではなくても、外野席の誰かに当たることを予想しながらライフルを発射した犯人が、ライフル弾が人に当たったことを運が悪かったと供述しても認められるはずがない。
 刑法的にも、誰かに当たることを予想しながら銃を発射した行為によって人が死傷すれば、未必の故意又は概括的故意と評価されて故意の存在が認められ、殺人罪又は傷害罪が成立する。
 交通事故の場合は、一般的にそれを未必の故意又は概括的故意と評価することはできないが、その過失は故意に近い場合がある。
 
 事故当事者の運が悪かったという言い訳に同情する運転者は少なくない。しかし、そんな考え方は改め、自らを戒めなければならない。人の体や心を傷付け、その命すら奪う交通事故の現実に対して、それを運が悪かったと表現することなど許されるはずがない。起きてしまった事故をなかったことにはできないが、その事故は避けることができたはずだからである。
 事故の原因とは「運」なのではなく、避ける努力を怠った運転者の運転そのものであり、悪かったのは「運」ではなく、運転者自身である。