過失の程度と結果の重大性

2018年 7月号

 自分の一生を運に委ねてはならない。まして、人の命を運に任せてはならない。

  人(特に若者)が利益を求めて危険の伴う行動に出る場合、最初に考えるのはその危険が発生する可能性である。そして、得られる利益に比例して危険発生の可能性が低ければ、それを実行する。
 しかし、大切なことは、得られる利益と危険の発生可能性との比較ではない。いかなる利益であろうと、その危険(悪い結果)が発生した場合、将来においてその被害を回復(修復)することができるかどうかという、いわば、被害回復可能性こそが重要である。

 20km/hのスピード違反を繰り返し、目的地に早く到着したことで得られたもの、それはあなたを本当に幸せにしたのか。もし、その結果として交通事故を引き起こした場合、失われるものは計り知れない。失われた人の命を取り戻すことはできない。時間を戻して、その事故を無かったことにすることもできない。
 その運転で重大な事故を起こすという危険の発生可能性を考えるだけではなく、その運転によって事故が発生した時に、自分の人生を失うことはないのかを考える必要がある。
 その考える力を想像力といい、自ら判断して自分の運転行動を変化させる力を理性という。

 夜間、道路を歩いている高齢者を跳ねてしまう交通死亡事故は数多く発生しており、そのドライバーには過失がある。しかし、それはどれほど大きな過失であったのか。他の誰も犯さないような危険な運転、重大な過失だったのであろうか。
 そこで問われる過失とは、私たちもいつか犯したことがあったのではないか。そしてその道路では、その死亡事故の前にも後にも、同じように漫然と運転するドライバーは何人もいたのではないか。
 しかし、だからといって、その死亡事故は決して運の問題なのではなく、確率の問題なのでもない。ドライバー自身が、その意志に基づいてハイビームにするか、40km/hで走行していればその事故を避けることができたからである。できることをしなかった、それは運の問題でも確率の問題でもなくドライバーの意志である。したがって、その結果として発生した事故に対して、ドライバーが責任を問われるのは当然である。

 失われた命は加害者の人生を道連れにする。それは当然である。失われた命が帰らぬように、加害者はその現実から逃れることはできない。消すことも忘れることもできない。
ならば、私たちは、そこから無縁であり続けるための努力を続けなければならない。消すことができないのであれば、忘れることが許されないのであれば、方法は一つしかない。その加害者にならないことだ。
 それは、私たちの自由を制約するものではなく、現在を生きる者として当然に担うべき役割であり、果たすべき責任である。
 車の安全機能にはない能力、それは私たちが持つ豊かな想像力に基づく安全意識であり、それを理性といい、共有できるもののことを知恵という。

 安全運転とは、その危険性や被害回復の可能性に気付いて運転行動に変化を与え、自分を戒め続ける力のことであり、安全運転を行うことに自ら価値を認めるその人の人格のことである。
 そして、安全運転管理とは、安全運転を習慣とする、そのための努力を惜しまないことである。