音楽、絵画、文学の価値、交通安全の価値

2023年 1月号

 音楽の価値は音の大きさではない。ハードロックは耳をつんざくほどの音量を伴ってその価値があるのだろうし、クラシックのピアニッシモにも価値がある。
 例えば、有名なベートーヴェンの第九の合唱において、それまで大合唱で歌われてきた歌が突然消え入るように小さく歌われる。「我々と思いを同じにできない者は、この場から涙してそっと立ち去るがよい」という部分、ベートーヴェンの自筆譜では、わざわざ赤字で、しかも大きな文字で「ディミヌエンド」書かれている。つまり、そこはスッと小さく歌え!、というベートーヴェンの明確な指示なのだが、大合唱が突然消え入るように歌われることでドキッとさせられる。聴く者に思いを投げかける。それはフォルテッシモから生み出されるピアニッシモの価値である。
 また、ショパンの有名な前奏曲「雨だれ」は、降りしきる雨音の落ちる様子がずっと連打され続けているが、終曲の前にフッと止まる。その瞬間、思わず息をのむ。音を消すという音楽の表現である。
 そしてハードロックもクラシックも、人それぞれの心に届き、比較することに価値はない。
 
 絵画の価値が絵の大きさに比例することはない。最高の評価が与えられているレオナルド・ダ・ビンチの「モナリザ」など、実際の作品はむしろ小さくてかわいい。
 親戚の叔母は絵を描いて、画家として生きてきた。既に八十歳を超えたが、今も絵を描き続けている。
 「私はね、光を描きたいの。そのためにモノとか人を描いているの」という叔母の言葉に不思議な感銘を受ける。それは画家としての名言なのだと思うが、やはり私に絵の価値はわからない。
 そして文学の価値とは、物語の長さではない。読み終えることが修行のように感じられるトルストイの「戦争と平和」や、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』などはとんでもなく長く、読む気持ちを失うが、その長さに価値が与えられたわけではない。
 音楽と絵画、そして文学とは、それぞれが人類の叡智の結晶としてその価値が認められ、伝えられていく。それは、その作品の価値であるだけではなく、それを認める人の価値でもある。
 
 さて、交通安全活動、安全運転の価値とは、単に数値で評価できるものではない。どんな交通安全活動が何件の事故を減らしたのか、誰の安全運転が事故を防いだのか、誰の命を守ったのかなど、誰にもわからない。
 しかし、わからないから価値がないのではない。数値の評価などできなくとも、そこに正しく価値を認め、交通安全活動、安全運転を続けていくことが私たちの課題である。
 目に見えないものに価値を見いだして大切にしていくこと、そして、一人でも多くの人とその価値を共有していくことが新しい安全な交通環境を創り出すためには必要である。
 
 安全運転を続けることとは誠実な運転を続けることであり、交通安全活動の目的とは、安全で快適な交通環境を創造することである。
 失われた命には名前があり、その悲しみは現実であるが、守られた命はそれが誰なのか、誰にもわからない。それは前年比マイナスの数値ではない。
 安全の価値こそ、すべての人にとって欠くことのできない大切なものである。守られた命の数を数えることができなくとも、誠実な運転を続け、交通安全活動を続けることに価値はある。目に見えなくとも、何かと比較することなどできなくても、そこにある価値を認め、高めていくことが人としての誠実さであり、その人の人格の価値なのだ。